三菱と滝野組

582 ~ 580 / 1505ページ
 港湾運送業の本格的開始は、蒸汽船が東京-函館港間を定期航海するようになってからである。すなわち、明治13年三菱が、郵便蒸汽船会社(明治5年8月創立、8年6月解散)を吸収、明治8年函館支店を設けて、本格的に東京-函館間定期航路開設を中心に、新航路を開拓して行く過程で荷役改善の急務を痛感し、神戸支店から艀業務一切の請負人として滝野善三郎を派遣したことに始まる。善三郎は熟練人夫若干名を伴って函館に渡航した。滝野善三郎は、以来、滝野組を称し、明治大正を通じ、三菱-日本郵船の専属「港湾運送業」として活躍する。滝野組は、専ら「艀業務一切の請負人」として活動したようである。すなわち、船内(沖りの本船から艀へ貨物を積卸する)沿岸(艀と倉庫との間の貨物運送過程)労働を担当したと思われる。三菱専属の人夫請負業者のはしりである。
 艀所有、運航と切り離した形態の、この船内、沿岸運送請負業が、今日でいうステベの典型である。ステベとはステベドア(stevedore)の略であり、本来は船舶や埠頭において貨物の積みおろしを行う荷役請負業を意味するが、時には、その業者を意味する場合もある。すなわち、滝野組の出現は、いくつかの諸条件の下で、ステベを2つの種類、すなわち艀運送(船夫による純粋の海運)と、貨物取扱、運送業務に分かったものといえるだろう。これは先の岡村の操業が、封建的問屋商人資本の港湾運送業支配からの離脱を象徴するのに対し、それを受けて、さらに商人資本から海運資本が特化、独立し、商人資本に代わってステベを支配し始めることの創始である。
 現在、港湾運送業は、主として2種類の資本、海運資本(船主)および商人資本から特化独立した倉庫資本の専属下請けとして活動しているが、滝野組は、函館で出現した海運資本専属ステベの象徴であろう。滝野組が艀所有と切り離し、人力のみを供給する人夫請負業型のステベとなったのには、一定の条件が必要である。すなわち、艀、倉庫および艀を着岸させ、人夫の働く場所が、親会社の三菱によって提供されていることである。この条件の下でのみ、滝野組は、船内(沖仲仕)、沿岸(陸仲仕)、倉庫(倉仲仕)人夫のみを組織集団労働者として提供すればよいことになる。『函館海運史』は、次のような三菱の準備を記している。
 
十五年……船場町の……支店の新築と同時に倉庫ならびに堀割工事を起し、両側に不燃質倉庫を建設したのは十七年六月であるが、当時としては全く理想的な施設であった。この堀割は特殊な設計に成るもので水面積四百十九坪六二、間口八間二尺、長さ四十八間二尺四寸、後部幅十間一尺の巾着形をなし、浮遊の塵埃が自然に外部へ流出するように出来ている。郵船は陸上との連絡施設にこの堀割を利用したので、荷役の便宜上から、艀は社外艀に縁を有すものを使用した。その後十八年十月、共同運輸会社との合併によって日本郵船会社が創立されたが、当時の荷艀は六十五屯積及び五十五屯積を合わせて五十三隻、ほかに曵船胡蝶丸があったが、なお艀不足に悩まされる盛況であった。

 
 この記述によって、我々は人夫請負業が港湾運送業に生まれる条件を知ると共に、三菱-日本郵船が、艀だけは、自己所有の船でなく、艀業者の艀を利用していたことを知る。「艀は社外艀に縁を有するもの」という表現は、あいまいながら、岡村小三郎以来、独立した艀業者が盛況を誇り、能力、経験豊富なところから、それら業者の何人かと専属契約、あるいは、随時契約を結び、その相当部分を支配下に置くことに、有利性を見出したことを知る。もし、艀業が、すでに盛んに操業していたのでなければ、「社外艀」を使用することができず、三菱自ら、艀を製作し船夫を乗り込ませざるを得なかったはずである。滝野組は、艀を取り扱う業者でなく、したがって船夫もいなかったに違いない。