これを機会に、通船業者は、通船業組合を作り、独立業種となって、艀業と分化した。
明治26年以降の、『函館商工業調査報告』などに見える部分を拾ってみる。
1、明治27年1月現在の調では、「通船業組合」があり人数130人、取締として竹内門太夫の名がある(明治26年『函館商工業調査報告』)。
2、明治29年『函館商工業調査報告』には「当港内艀船ノ数ハ一七二艘ニシテ船夫五八八人アリ、又飲用水、運搬艀船ノ総頓数ハ二七一頓アリ、外ニ港内通船一六六艘アリテ此船夫八二人アリ」「港内ニ在ル通船ト称スル小舟ヘ海上ノ遊覧又ハ鯖釣等ニ雇フモノ多シ、一日雇切船頭付ニテ一円五十銭位ナリ、但時間ノ長短ニ依リ二回以上ニ至ルモノアリ、一回以下ニ下ルモノアリ一定セス…又旅客ノ汽船ニ乗入ル時ニ見送人ト共ニ此通船ニ乗ルモノハ、港内本船所在ノ遠近ニ関ラス往一人十銭ノ定メナリト雖モ、数人往復スルモノハ一艘五十銭ナルモアリ、天候ト時間トニヨリテモ亦増減アリ」とあり、明治20年代以降、通船が人夫運送だけでなく、遊覧、釣用にも使われたようである。
3、明治34年『函館商業会議所年報』でみると、函館区内組合表には、通船業組合名がない。艀については、明治32年組合ができたことを反映し次の3つの組合が並記される。ただし、取締規則はない。
(1)函館運送艀業組合、組合員9名、仲浜町28、(2)艀組合、組合員3名、船場町15、(3)日本郵船株式会社函館支店所属貨物船客扱問屋組合、組合員9名、船場町日本郵船(株)函館支店内
4、明治37年『函館商業会議所統計年報』では、(1)函館運送艀業組合、大町、(2)郵船会社附属貨物船客扱問屋組合、郵船会社構内、(3)函館乗用艀業組合、末広町、(4)郵船会社荷艀組合、郵船会社構内とある。やはり、艀業はあるが通船業組合はない。ただし「乗用艀」というのが出てくる。この明治34年、37年の商工組合表に、通船組合の名がなく、代わって、唯一の旅客定期船たる日本郵船に所属する「貨物船客扱問屋組合」が郵船構内にできたということには、何らかのつながりがあるとも考えられるが、これだけのデータでは、今のところ何ともいえない。
5、明治38年『函館商業会議所統計年報』には通船の記事はない。艀については100石以上の艀船190艘、艀船240艘の記事がある。だが大正5年『函館商業会議所年報』の函館区各種組合表には、「通船業組合 末広町 組合員二五〇人組合経費 三六万円」とあり、確かに通船業組合が存在していた。だから、明治30年代後半以降、消滅したのではないと考えられる。ただ、艀業が全盛期に入ってきており、明治20年代までのような勢いは、なくなったといえるかもしれない。同じ表に「運送艀業組合 仲浜町 九八、組合経費 五三万四〇三七円」とあって艀業ものっている。また、この表に、運送労力請負業組合、真砂町、41名、組合経費8万3050円とあるのは、仲仕業の組合ではないだろうか。