さて明治十八年より三菱会社と共同運輸会社と合併になりて、日本郵船会社となり、元共同運輸会社の倉庫、建物は不用となりし故、其建物、地所一切を買取りて倉庫業を始めたり、尤も倉庫の事は明治十七年頃より必要を感ぜし故、有志者が打寄り創業の計画をいたせしが、何分費用が掛りて計算に合ざる故、其儘になって居りし所、幸に共同運輸会社の荷捌所跡は必要の倉庫地なれば、余が一人で創業すれば、費用も多く掛らざる故、有志者と相談し、倉庫業は余一己にて創立せんと断りて始めたり、其時は船場町九番地のみにて開業せしが、其時分は未だ倉庫の便益を感ぜざる故、荷物を預っても不足なりしが、追々便利の事が一般にわかり、其地所の裏手の空地も皆倉庫を建てる様になりて二十三年頃には、又又大きな不足を感ぜし故、広業商会の笠野氏の所有、船場町二番地、六番地、七番地の地所、建物を全部買取りて、それを倉庫と為し、其中に船場町の官有地にてドイツ人のシロタといえる者に永代借地になって居りしを、同年これを買取り残らず地続きを為し、元の外国人の家宅は取り毀ちて湯の川の別荘に建て、其跡に煉瓦作りの倉庫を建て増して尽く地続きになり、大いに便利になりたり、又荷主方も倉庫の効用が追々わかりし故、随て荷物は多く入る様になり、他の人々も倉庫業の必要を感ずる様になりて、其後三井物産会社、安田銀行、共同商会、藤野、辻快三、柳田等迄、追々倉庫を建て、今日の倉庫業の盛大なりしのも、余が率先してありし、又明治三十年頃より荷物が益々多くなりて倉庫が不足になりし故、追々空地を取込みては建て、今日では総建坪二千三百坪許りになれり、尚又倉庫の事務所に回漕業の店を一緒に置きて、皆汽船を取扱って居れり。 |
明治24年の船場町の倉庫群 北海道立文書館
渡辺は明治20年創業の時はいまだ預り貨物が不足であったが、23年頃から倉庫が不足になる位に預り貨物量が増大したという。以下、20年代後半、倉庫業が急速に発展し、30年になると、回漕業と倉庫業とは、分化したと記述している。この時、渡辺は、単なる商人資本ではなく、海運、倉庫業を兼営する産業資本家になっていたといいうる。