もっとも、このブームは、数年にして去り、逆に、鉄道株募集難となる。イギリスの鉄道熱と相似た現象である。「小樽新聞」の明治28年6月20日号に、次の記事が掲載されている。
函樽鉄道の調和 小樽函館間凡そ百八十哩間に鉄道敷設の急務は、朝野ともに見認むる所と為り、随って其の事業は、官設を待たず、民設にて敷設せんと欲し既に先頃阪本則美氏が小樽札幌の有力者と協議の上、北海道鉄道会社を創立し岩崎鴻ノ池等の金穴も之が後援となり、札幌に創立委員会を開いて直ちに請願書提出の手続に及びしに之に少しく後れて函館にても同一線路に対し園田実徳氏を首とし阿部興人、渡辺熊四郎、杉浦嘉七、平田文右衛門等の豪商紳士を以て私設鉄道会社を創立し、之には日本郵船会社筋の豪商も多く加盟し、直ちに創立委員会を函館に開き、頗ぶる機敏に議事を決して是亦願書を呈出し、終に一線路に二個の出願となり密々の間、互に競争の色なりしが、斯くては折角の計画も或は急に許可を得難からんとも憂て、頃日来、阿部興人氏の如きは、熱心に双方の間に交渉仲裁し、終に去十四日に至り、双方合併して一社を為すことに協議はまとまったりという。 |
ここにあるように、ついに札幌と函館が1つになって会社を設立して、今にも函樽鉄道はできる勢いであったが、道庁の鉄道方針、奥地殖民鉄道建設の方針に外れたこの民間鉄道建設の道は険しかった。