明治期の函館においては、北海道の海港商業都市として各種の商業集積が行われているが、その重要な構成要素となっていたのが移入米の消費地・集散地としての展開に伴う米穀関係の商業集積であった。それは、明治年間の北海道が移入米の大消費地であったことに関わって、その移入港のひとつとなってきた函館に付与された商業機能であった。市内にはそうした移入米を取り扱う有力な委託問屋や米穀商などが多数存立し、そこでは年間30万石以上の移入米が取引・流通されていたのである。
そうした当地における米穀市場については、いくつかの特徴点が指摘される。その第一は、その需要が当市内の当用小口需要や手持筋の大口需要(酒造業の仕込米など)、奥地需要仕向け米、ニシン漁場やサガレン出漁者の糧米しての場所仕込米などから構成され、まさに当時の函館の都市的性格や経済・産業の活動に深く結び付いたものであったことである。つまり、当用小口向けの市内需要は形成途上にある都市・函館を支える膨大な職工層やはしけ・土木・漁業などの半プロ的な労務者層による食糧需要を具現したものである。また奥地仕向けについても当時の函館の商業活動・商圏を大きく反映したものであり、その出荷地域は東海岸を主体に一時は根室方面まで延びていた。場所仕込米は函館の発展基盤ともなっていた北洋漁業基地としての展開と関わったものであり、それは青田買による海産商と漁業者との仕込関係を前提にしたものであった。その第二は、そうした需要性格を反映して当地が低質米の重要な市場となってきたこと、しかも漁業者用糧米に主に向けられる国白(産地から白米で移入されるもの)が多かったことである。その第三は、当地の移入米が日本海側の東北、そして北陸の産米であったことである。それについては幕末以来の歴史的なつながりや「日本海航路という輸送条件のためだけではなかった。北海道はもっぱら低質米の需要が多く、それら産米にも低質米が多かった」(持田恵三『米穀市場の展開過程』)と言う第二の特徴との関わりが指摘される。その第四は、第二、三の特徴と関わって輸送手段がかなり遅い時期まで海上輸送、しかも日本型帆船によって行われていたことと相まって旧来型の廻米取引が最も遅くまで残されていたところであることである。まさにそうした取引関係に介在していたのが委託問屋であった。その第五に、これまであげた需給関係、輸送・取引形態、価格形成などの条件のもとで中央都市市場を中心とした全国流通から相対的に自律した地域市場圏の形成がはかられてきたことである。
こうした当地における米穀市場の発達は、一方において米取引そのものの持つ投機性や危険性、価格の地域間格差などと相応する方向で定期米取引(米の先物取引)の発生を促すことになり、そうした米の先物取引(定期米)のために米穀取引所の設立が行われている。それが明治27年の「函館米穀塩海産物取引所」(後に「函館米穀塩海産物株式取引所」と改称)の設立であった。
当地における取引所設立の動きは、かなり早い時期から起きており、具体的には明治12年の弘前町士族7名による米商会所設立の動き(開拓使函館支庁に設立出願)(『青森県史』10)、さらに明治20・21年における当地有志による函館取引所設立の運動(明治21年に農商務省に設立上願書奏呈)などとして示されている。後者においては、「函館に於いて取引場(ブルウス)設立の議起り発起人の身元調に付当家所有の不動産調書を区役所へ差出す」という明治20年10月17日付けの田中家の記録から示されるように取引所設立発起人会が結成され、設立認可に向けてのかなり精力的な運動が展開されていたことがわかる。しかし実際に取引所が設立されるのは「取引所法」の制定によって近代的な取引所制度が確立する明治26年のことである。それに伴って当地では函館商工会を中心として取引所設立に向けた運動が組織され具体的な設立準備が進められており、26年8月の函館取引所創立発起人会の結成を皮切りに、12月の取引所発起認可の申請、翌27年1月の同認可、3月の取引所設立の出願、4月の設立免許状の下付といった手順で、7月の開所に至っている。
こうした取引所が設立された理由としては既述の通り米穀市場の発達が基本的に指摘されるが、それと共に米取引をめぐって発生していた弊害やトラブルの解決を米穀取引所の設立に求めようとする地域の意向もより強く働いていたことも要因として見過ごせない。そのことは当該取引所の(設立)目論見書のなかで「公共ノ取引所ナキ為メ商業上幾多ノ不便弊害アリ」、あるいは「公共ノ取引所ヲ設置セハ相場ハ確実トナリ取引ハ安全トナリ従来ノ諸弊ヲ一掃スル」(明治26年『第八回北海道庁勧業年報』)などとして設立の必要性が唱えられていることでも明らかである。ただし、そこで想定されている公共の取引所が果たして先物(定期米)取引所であったのか、あるいは現物(正米)取引所であったのか、については必ずしも明確ではない。そうしたあいまいさが単に商品取引所に対する認識上の問題であったのか、あるいは意図的に行われたものであったのかについては現時点では判断が難しいが、そのことが取引所設立の必要性を社会的に訴えていくうえで極めてプラスの要素として作用していたものと思われる。ただし、設立後においてはそれが逆に取引所に対する不信を招く要因ともなっていったこともまた予想に難くない。しかしながら目論見書において指摘されている弊害等を鑑みるならば当時期の函館の商業風土として商業・取引の投機性・ギャンブル性、ひいては定期米取引、商品先物取引所を積極的に受け入れようとする素地が広く醸成されていたことも否定できない事実としてみておかねばなるまい。