汽船・弘明丸の就航

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 こうして翌6年1月に弘明丸を用いて青森と安渡(現大湊)の両港へ向け試験航海を始めた。弘明丸は206トン、40馬力、明治3年横須賀で建造、積石約500石、乗客数100名というスクーナー形木製の汽船であり(「開公」1171)、横浜の鈴木保兵衛らが3年に横浜・東京間に運航させていたものを5年4月に購入したものである。1月24日の青森便を皮切りに2月上旬にかけて数度の試験航海(これは試験とはいいながらも乗客、貨物を積み運賃収入もあった)を終えた2月11日市在に発着日割等の達しが出された。それによると日程、運賃は次のとおりである。
 
   「定則」
毎月 二ノ日 函館出帆  青森着
同  六ノ日 函館出帆  安渡着
四ノ日 青森出帆  函館着
同  九ノ日 安渡出帆  函館着
  但暴風雨ノ節ハ日送ノ事
 乗船賃金定
上等   金 三円
中等   金 二円
並等   金 一円五十銭
    但十五歳以下半減ノ事。喰料上等壱飯ニ付五銭ツゝ、中等以下壱飯ニ付三銭ツゝ
    船中賄方ヘ可払事
 穀物類 四斗入 一俵ニ付 金拾八銭七厘五毛 但百石以上積入ノ節ハ壱割減ノ事
 酒醤油樽類 二斗入 壱樽ニ付 金拾弐銭五厘 但百石以上積入ノ節ハ五分方減候事
 箇物函樽類 拾貫匁ニ付 金弐拾銭
 長持両掛箪笥類 曲尺ニ付 金拾銭
 唐物反物類 曲尺ニ付 金拾銭
 縄莚類 壱束ニ付 金六銭弐厘五毛
(「開公」六一〇〇)

 
 これによれば函館・青森間および函館・安渡間の2線は月単位で各3往復、計6往復であった。回漕業務は開拓使の手ではなく従来和船の差配に大きな力を行使していた旧特権層といえる廻漕問屋の手に委ねた。つまり積荷や乗客の手配や切符の販売等は函館市中の問屋商人に担当させたわけであるが、その手続きとして、13項にわたる「三港往復郵船取扱規則」を弘明丸から問屋一同へ達している(同前)。「往復郵船」という表現は郵便の扱いが重要な任務であったことの反映であろう。ちなみに問屋会所に乗船切手と荷物取扱所を仮設して、問屋月行事がこれを担当し5パーセントの手数料を得ている。なおこの取扱は明治8年以降問屋の特権が廃止されてからは、問屋商人に限らず個々の回漕業者が行ったと考えられる。
 1月に弘明丸が航海を始めてからかなりの利用があったようで、4月までの運賃収入は14往復で2380円余にのぼり、4月中は「追々出稼人等乗込人モ相増候形勢ニ付」(同前)、その利用が増加している。ところが翌5月には黒田次官から弘明丸を青函航路の他に森・室蘭間の航路にも就航するよう指令があり、月の3分の1は同航路にも就航せざるを得なくなった。森・室蘭航路は帆船安渡丸が就航していたが、札幌本道の全面開通を1か月後に控えて同航路を拡充するために取られたのであった。これに対して函館支庁は定日運航がすでに管下では周知されており、また青森側も広く利用しているため、弘明丸を両航路に兼用することは日程の変更もしなければならず利用者の信用も失いかねないとして反対した。しかし函館支庁としても森・室蘭間の航路の重要性を理解していたので東京出張所の指令を受けざるを得ず、そのかわり出来るだけ早い機会に代船を充てることを進言した(「開公」5531)。この問題は12月に至り辛未丸を就航させることで解決した。なおこの間和船によって行われていた大間・函館間の郵便逓送業務は弘明丸による定期航海が可能となったため廃止されている。
 創業当初の青函航路は青森から函館への運賃収入がとりわけ大きい。前述したように4月は特に北海道への漁業出稼ぎのため青森から函館へわたる人々で賑わったと考えられる。この航路において和船の利用から弘明丸という汽船へ全面移行がなされたわけでないにしても、運賃収入にみられるように、開拓使経営による青函航路は輸送力の増強という点で大きな役割を果たすことになった。そして北前船による日本海航路と諸汽船会社による東京・函館間の航路とともに、基幹航路へと成長していくのである。
 6年12月に弘明丸が青函航路のみに専用船となるとともに函館・青森と函館・安渡の2路線を変更して函館・青森の航路の一部を安渡まで延長するという1線方式とした(「開公」5600)。全体としては従来の月6往復という航海回数は変わらないものの青森行きが3回から6回と増加されたので、両港の交通事情は一層改善されることになった。