青函航路の受託

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 12年5月16日、三菱の岩崎弥太郎は内務商の駅逓局長にあて、青函定期航路開設の伺書を提出した。その要旨は次のとおりである。津軽海峡は潮流が激しく風浪も激烈であり、定期渡航船もなく夏期の海上平穏の時に臨時航海があるのみである。そのため北海道や青森の人民の不便さはいうまでもなく郵便の発送業務にも不便である。このため浪花丸を定期船として配備し、日曜を除き隔日で函館・青森両港の往復航路を開き、北海道人民の交益を増殖し、ただし冬期間は輸送品も減少するため損益の目途がつくまでは駅逓局および開拓使の助成を願いたいというものであった(『三菱社誌』第6巻)。この伺書のなかで青函航路は臨時便のみという表現は誇張があるにしても、例えば「函館新聞」(12年7月1日付)に「一体本港と青森との間は是まで一、二船舶の通航あるも素より不定期の渡航なれば…」とあるように、6年に開拓使がこの航路に定期便を開いて、後には週に3往復程度の便があったものの、このころはその運航がかなり不定期化していたのであろう。その理由は判然とはしないが、すくなくとも函館にあってはそうした実態であったようであり、またインフレ基調のなかで同航路の需要が高まり、定期化の要求が生じてきたといえよう。

三菱会社 兵庫丸 明治15年8月「開港以降入進外国船及西洋形日本船略図」新潟県立図書館蔵

 開拓使による同航路は経営上で問題含み欠損続きであったと考えられ、三菱が肩がわりともいうべき経営を申し入れたのは開拓使にとっては歓迎すべきことであった。青函航路は植民政策を進めるうえでも欠くべからざる航路であり、たとえ欠損続きでも開拓使は廃止するわけにいかず、一方では三菱は北海道海運の独占を意図していたと考えられ、両者の利害が一致して三菱による青函航路の開始が認められた。6月30日午前8時浪花丸が青森へ向けて出港した。これが三菱による青函航路定期便第1船であり、ほぼ隔日で運航された。三菱は浪花丸を函館定繋としたが、後にはこの他に青龍、蓬莱、芳野も函館定繋として貨客の多寡により同航路に就航させている。
 同年6月に前島駅逓局長は開拓使の安田大書記官に対し、同航路の収支不足予想額の6000円余のうち3分の1を開拓使が助成するよう要請し、これを受けた開拓使は了承した。ちなみにこの不足額の積算は開拓使が同航路に就航させている弘明丸・稲川丸の10年度の収支の欠損額が6000円余となるので(『開事』)、この数字に基づいたのであろう。同年10月に駅逓局長および開拓長官名でそれぞれ三菱に対して各3分の1を12年から14年12月まで助成する旨の指令書が三菱に渡された。ちなみにこの命令書によれば開拓使が補助する条件として運賃の上限を定めている。この料金は開拓使付属船のものを踏襲しており、また料金を低減する場合は開拓使の許可は必要としないが、値上げする場合は開拓使の許可を受けることとしている。また浪花丸が就航できない時の代船の規定や定期航海の収支報告の提出などを定めている。
 また開拓使の助成とは別な形で函館税関も三菱に対して特別な便宜を図っている。それは函館港は桟橋が設置されておらず入港船舶は艀を利用して乗客の乗降、貨物の積卸をしていたが、三菱に対しては税関前の波止場の専用利用と、また夜間の貨物の積卸を無届けで行うことを認めた。こうした開拓使あるいは国の保護の背景には国策による海運会社としての性格を三菱が持っていたためであった。三菱によって隔日の青函定期航路が開かれたことから、開拓使は「該社(三菱)ニテ此航路ヲ受持候上ハ当使付属船ヲ以同航路ヲ運転候テハ所得ヲ分裂シテ弥収支不償ハ必然ニ付付属船ヲ以テ此航路ハ必運転不致事ニ決定」(明治13年「東京文移録」道文蔵)し、開拓使付属船による青函航路を廃止した。三菱が青函航路を始めてからちょうどインフレ期に入ったこともあり同航路の航海度数は飛躍的な増加をみた。明治12年度「函館商況」(『函館市史』史料編第2巻)の第5款「出入船舶」の項をみると対前年度で汽船の青森行が増加したことを指摘して、その原因として三菱社船が定期航海を開いたことをあげている。ちなみに浪花丸の12年後半期の運賃収入をみると、旅客運賃が2万2281円、貨物運賃が8392円(『三菱社誌』第6巻)であり、旅客輸送の比重が非常に高い。これは北海道における漁業生産の拡大、それにともなう漁夫の移動、および道内の内陸部の拓殖の進捗により移民の移動が活発になったことなどがあげられる。