寡占化の動き

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 さて開拓使付属船による青函航路が廃止され、同航路を1社独占した三菱は運賃引き上げをした。また翌13年7月には青函航路の郵便物輸送業務も受託している。こうして三菱による輸送体制の確立とともに、一方では函館を起点とする道内外の海運独占の動きに拍車がかかったのである。このことに呼応して各航路の運賃値上げをしている。
 さてこれまで、函館に限定してみてきたが、三菱の航路独占は単に函館あるいは北海道関係の航路にとどまらず、全国的な規模でおしすすめられてきた。その結果、同社に抑えられた地方の回漕問屋や和船業者の間に、非難の声が高まり、中央の新聞や雑誌にも三菱攻撃論がかかげられるようになった。そして三菱に対抗するように三井系の東京風帆船会社の創設ということも見られた。この会社の動向は次節において述べる。
 中央の動きとは別に北海道においても反三菱の動きが見られるようになった。その先陣をきったのが、これまで政府と同じく三菱の保護政策を取ってきた開拓使の内部からであった。13年10月に三菱の岩崎弥之助が来道し、函館、札幌、根室と視察し、また開拓使の札幌本庁に対して道内の集荷用にと開拓使の付属船の払い下げの出願などをしている(明治13年「東京文移録」道文蔵)。こうした動きに対して札幌本庁では同年11月に東京にあて「…熟考スルニ該社従来ノ慣手ニテ同業者ヲ競リ倒シ独リ専ラ其利ヲ壟断スル趣向ニシテ而モ対立スルモノハ悉ク之レヲ除クノ主義ト存ジ故ニ本使ニ於テ定期航海ノ設アリテハ該社自侭ノ航海ヲ為シ充分ノ利ヲ占ムル不能ヨリ右払下願出ノモノニ有之果シテ然ルニ於テハ到底該社ノ所為実ニ頼ムニ足ラサルモノニシテ縦令函樽両間ニ定期航海ヲ開クモ人民ノ便利ハ無覚束候間…」(同前)と述べて三菱に対する警戒の色を強めている。
 岩崎弥之助来函のさいには「…三菱社は当道に最も頼母敷ものにて開拓に熱望する我々の益友なれば何処までも賛成して共々全道の開明進歩を謀らざるを得ず…」(13年10月7日「函館新聞」)と好意的な論調であったり、さらには三菱船の積荷の荷揚げが遅延したという事態が生じた時もむしろ、三菱を擁護する投書を掲載するなど三菱寄りであったものが、翌14年の夏以降の記事では批判的な論調、あるいは投書を掲載し反三菱的へと転じた。これは三菱の独占による弊害が表面化したこと、それにともなう経営上の傲慢さなどへの批判であった。
 このようななかで政府と三菱の関係に大きな変動が生じた。それまで三菱の保護政策の主導者であった大蔵卿の大隈重信がいわゆる「十四年の政変」によって在野に下ったことである。反三菱として三井系の東京風帆船会社が設立され、また全国各地では新に海運業が起きてきた。函館の場合も同じような意図のもと地場資本による「北海道運輸会社」が設立されて海運事情に大きな変動が見られるようになってきたのである。