開拓使が廃止されることを発端に函館区民の間に海運会社を設立しようという動きが生じてきた。廃使後の15年3月に設立された北海道運輸会社がそれである。同社はわずか1年足らずで共同運輸会社に併合されるが、函館の商人が公益性を前面に打ち出し、地域に根ざした海運事業に意欲を示したことは地場商人が海運に対する地域的な自生を意識したという点において注目に値するものである。
また既述したとおり三菱会社の海運独占による弊害が顕著になり、中央では新聞、雑誌が三菱攻撃の記事を掲載し、同社に抑圧されている地方の問屋や和船業者たちの間にも非難の声が高まってきているなかで反三菱を旗頭にした海運会社が設立されるようになってきていた。函館における海運会社設立の背景にもこれと軌を一つにする面があった。
13年10月19日付の「函館新聞」に「開拓政談」と題する論説が掲載されるが、それには「近頃道路の風説を聞くに明十四年度の後は開拓使を廃して県となすとか其説の真偽は廟堂の内議に係り我々卑賎の耳を以て伺い聞く可らずと雖も東京各地の新聞雑誌等に載せて見る所あり……」と廃使について触れている。こうした報道などにより函館区民は開拓使の廃止が間近いことを知った。
廃使は開拓使付属船による海運事業の中止を意味することになる。この当時三菱を中心とした民間海運会社の興隆により開拓使の海運事業の占める役割が相対的に低下しているとはいえ、函館商人はインフレ傾向で物資流通量の増加が顕著となり慢性的な船腹不足に悩まされており、それに追い打ちをかける措置に不安を感じていたことは想像に難くない。函館の経済が海運に大きく依存しているなかで、函館商人の関心は開拓使付属船の行方に向けられた。
14年6月18日常野正義、杉浦嘉七、田中正右衛門、村田駒吉、泉藤兵衛、金沢弥惣兵衛、高橋七十郎、宮路助三郎、山本忠礼、伊藤鋳之助など函館の有志者22名が会合して一大海運会社を設立することを決議した。新聞報道では、具体的な内容は言及されていないが、廃使後の付属船の受け皿作りが念頭に置かれていたと考えられ、その目的も「函館人民の一大結合したる会社を創立し専ら公益の事業を起し地方の一大便利を謀らん」(6月19日付「函館新聞」)ことにあった。これが会社設立に向けての動きの第一歩であった。
彼らの大半は函館の有力商人であるが、区政のリーダー格の常野正義、第百十三国立銀行の役員で区会議員でもある杉浦、田中、泉、村田、また廻漕問屋の宮路、船持ち商人の高橋などが中心的な存在であった。杉浦や田中のような旧特権的商人は別にして、彼らの大半が明治期に台頭してきた新興階層であった。こうした構成に新しい時代の息吹をみることができよう。特に宮路助三郎のここに至るまでの動きに目を引くものがある。