政府の調停と最後の競争

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 こうした事態を放置できないと判断した政府は18年1月に両社の社長を農商務省へ呼び出した。政府の意向をうけた両社は運賃、出帆時刻、貨物周旋営業人、乗組員の4点について取り決めをした。原則は同一料金、汽船の速力を制限し海上での競争による弊害を断つこと、従来積み荷問屋は系列化していたが、それを解消して、自由に両社の扱いをすることにさせて、また手数料などについては協議するなどの取り決めがなされた。この間岩崎弥太郎は2月に没し、その弟弥之助が三菱の社長に就任している。
 この答申を具体化した協定広告は3月8日の中央紙に掲載され、3月25日の「函館新聞」にも同様の広告が掲載された。協定に即した動きは、ただちに函館にも波及し、3月18日付の「函館新聞」には両社の函館支店が運賃定額の協議が決定したので近日中に実行するはずと報道し、また28日付けでは「両支店にては両本社今回申合わせに基き尚打合せ中なりしがいよいよ双方熟議せしを以て昨廿日より右申合せの如く実行するといふ」と報道されている。また同29日以降の紙面には両社の出帆広告を並記して掲載されるようになったのもこの協定によったためである。

積荷問屋 納代東平『北海道独案内 商工の魁』

 
 さらに乗客、貨物獲得に一定の役割を果たした積荷問屋に関して協定が交わされたが、これが函館ではどのように実行されたかをみよう。三菱の系列化にあった積荷問屋については前節で述べたが、その後出入船舶の増加や貨物輸送量の増加により積荷問屋も営業軒数が増えていったと考えられる。共同運輸が函館で営業を開始した時は北海道運輸の継承という性格もあり、同社と提携していた積荷問屋が代行業務をしたが、18年での両社の問屋をみると三菱が東浜町納代東平、中村、勝田、浜谷、池田、岡、これに対して共同運輸-芦野、林、和田とそれぞれが系列下にあった。これらはそれぞれに活発な客引き活動をしたが、系列下の廃止、自由な活動を保証するという協定書が中央でかわされてからは、函館でも系列化が廃止された。例えば写真で示した和田惟一は従来は共同運輸の指定回漕店であったが3月21日付けの「函館新聞」には「…今回其筋之御諭達ニ基キ三菱共同運輸両会社協議ヲ遂ケ契約ニ際シ更メテ三菱共同両会社ノ許可ヲ得両社ノ船客荷物取扱仕候…」と広告しているし、これ以降各回漕問屋が同じ趣旨の広告載せている。このように中央で両社の和解が進められる一方で函館でも進められていった。
 ところが協定書を交わしたにもかかわらず共同運輸が特約を結ぶということがあり再び両社の競争が激化した。函館においても7月3日に「函館新聞」が「汽船競争」と題して報道しているが、それによれば「三菱共同両社の競争ハ日に甚敷を加え昨今ハ其周旋屋へ下等の乗客一人壱円の割にて切符を渡し周旋屋は臨機に之を壱円三十銭若くハ弐拾銭或ひは元値の壱円時宣に依りては七拾五銭若し売れば五拾五銭でも売といふ…」と常軌を逸した競争を嘆く記事を載せている。さらにイギリス領事は「三月に現行運賃に関する協定を結んだが、両社ともそれに固執することなく割引制度を始め、当初は十五~二〇パーセント、後には五〇パーセント引きとなり、なおかつ八~一三パーセントの重量の割引を伴っていた」と異常な運賃割引合戦の様子を述べている。このため政府はこのままの事態を放置すれば両社の共倒れは必至とみてまず共同運輸の伊藤社長と遠武副社長を退任させ森岡昌純を兵庫県令から農商務少輔として在官のまま社長に任命した。社長更迭によって反三菱の社内を合併へ転じる工作を行い、また三菱側も合併には強行な態度を取っていた弥太郎が没した後は柔軟な対応で事態の収拾を図ろうとした首脳陣も調整を図るなどして18年9月に両社が合併して日本郵船会社の設立をみたのである。
 両社の競合は結果的には海運状況を活発なものとした。そして3県期の不況下、海産物の価格が下落するなかで運賃も連動して低減し、そこに競合による拍車がかかり一層の運賃低落がもたらされた。特に18年はそのピークであったが、函館の経済界では物価下落による損失を運賃低下によって補填することが可能となったのである。