この後第四十四国立銀行は経営にゆきづまり、創業初期から取引のあった安田善次郎に15年1月に救済を要請した。安田は安田系の第三国立銀行の役員と相談し、同年7月に両銀行が合併することとなった。
東京第四十四と東京第三両国立銀行合併の際、とり交した合併約定書のなかに次のような条項がある。
第十一条 第四十四国立銀行各支店及出張所の受渡も本店同様の手続を以てすべし 第十二条 函館支店は前条に掲げたる受渡を結了為すの際同時に山田慎氏に売渡すべし 但本条売渡に付ては本人と第三国立銀行との間に於て特に約定を取結ぶものとす |
これで明らかになったことは、函館支店は山田慎に売渡すことをあらかじめ互いに合意したのであって、受渡を結了する際同時に第三国立銀行と山田との間でさらに売渡の約定を結ぶに至ったのである。このときの山田の身分は、第四十四国立銀行の取締役となっていた(「松尾臣善関係文書」『日本金融史資料』第4)。
さらにこのとき合併条件として、山田慎の私財(硫黄鉱山)を担保にとられた。この合併は戦略的にみて、安田の財閥的な発展を可能にする重要な契機となり、北海道・東北への事後の伸展の基盤を確保することになった(由井常彦「安田財閥」)。
かねてから銀行設立をもくろんでいた山田は明治16年2月、資本金10万円をもって山田銀行を創立(函館大町32番地)した。支店(小樽・根室・東京日本橋区)および出張所(札幌区、月形村)を設け、開拓使が廃止されて3県時代にはいった直後に合併したので主として大蔵省および農商務省管理局の現金取扱御用に従事し、かねて一般銀行業務を営んだ。詳細にみれば札幌農業事務所および工業事務所、根室農工事務所、七重農工事務所、樺戸空知の両集治監である。このうち樺戸、空知の2所を除き、他の諸店は銀行諸務を営んでいる(『北海道金融史』、『増訂北海道要覧』)。
つけ加えれば、山田銀行と安田善次郎の関係だが、前述のように硫黄山のこともあり興味のあるところだが、明治17年に安田善次郎が来道したとき、根室の山田銀行支店を訪ねて状況を調査し、さらに函館に帰って「縁故ある」山田銀行の諸帳簿を検査しているのである。それに「当時山田銀行はじめ北海道の融資先には硫黄業関係が多かったので、自身で調査を試みたものである」(矢野竜渓『安田善次郎伝』)とあることから、山田銀行も安田の融資先であったと思われる(前掲『安田財閥』)。