第三国立銀行の進出

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第三銀行函館支店の店内風景 『実利実益 北海道案内』より

 
 第三国立銀行は、成立過程からいって、安田善次郎が中心となり、資本金20万円のうち約47パーセントを占める最大の株主であったので、彼の完全な支配下にあった。この銀行の初期における発展の契機は、明治15年における第四十四国立銀行の吸収合併であった。それは、安田の財閥的な発展を可能にする重要な契機となったからである。第一に、善次郎がすでに構想していた北海道・東北への事業の伸展の基盤を確保することになったからである。例えば明治20年代の北海道での硫黄・石炭開発・倉庫業などの諸事業の発展、東北、北海道での金融業の展開などである。
 明治20年以前の安田銀行・第三国立銀行の発展にとって重要な意味を持ったのは、為替網の拡大と、官金取扱であった。江戸時代から明治期の国立銀行時代に変わっても、明治前期の為替業務は銀行の主要な業務の1つであり、大きな為替網を持つことは銀行の発展の1つの鍵であった。第三国立銀行の「申合規則」(明治13年)の中には、「諸為換ハ金融緊要ナル科目ニシテ世人ノ便利ヲ助ケ加フルニ本行ノ営業取引ヲ増殖スル紹介トナルモノナリ」(『富士銀行百年史』)と書かれている。
 第三国立銀行は設立後間もない明治10年11月に、大阪出張所を開店した(翌年大阪支店と改称)。これまで大阪の為替取組先であった大阪の10人組の逸身家に代えて、安田直系の銀行の支店を大阪に設けて為替取組を始めたのである。第三国立銀行大阪支店を担当したのは、逸身家と金銀貨売買取引をしていて安田善次郎と知り合いであった小田平兵衛であり、小田は第三国立銀行の株主でもあった。
 善次郎は為替業務をおもに第三国立銀行に営ませようとしたらしく、同行は明治11年9月に横浜支店、明治20年9月に函館支店を開設したが、いずれも為替取組の拠点としての意味を持った。また、為替取組契約先も第三国立銀行はすでに明治13年末に77を有し、明治15年6月末の安田銀行の19をはるかに上回った(『富士銀行百年史』)。
 民間預金の乏しい明治前期にあっては、官金預金の獲得が、銀行の資金吸収力を決定する面が強かったことはよく知られている。明治政権と密接な関係があった三井銀行などとくらべると、安田の官金取扱業務への参入は時期も遅かったし、規模も小さかった。とはいえ、他の有力国立銀行と同様に、官金取扱が安田銀行・第三国立銀行の発展のステップとなったことは間違いない。第三国立銀行は明治19年に山田銀行から北海道為替方を譲渡されている。
 第三国立銀行は明治29年12月、国立銀行営業満期にともなって、普通銀行の第三銀行になった。その際、資本金を100万円から200万円に増資した。日清戦後の発展の特徴は、地方支店の増設による地方金融への積極的進出である。第三銀行の場合には支店の配置とは異なっていた。『安田銀行六十年史』は「(明治)三十一年上期末に於いて大阪横浜、松江、函館、鳥取、米子、境と(安田銀行)より広範に金融網を敷いて居た事は注目すべき事柄であって、殊に同行は全関係銀行の資金集散を主として総括して居た事より観ても(中略)総合的な全国的な銀行たる萌芽は寧ろ同行に在ったとも観られる」と述べている。確かに、同行の支店は大坂・横浜・函館の商品流通の重要な結節点に存在したのである。このように、安田系の第三銀行は、全国の自己銀行網の中に位置づけられ、函館支店を通じて本道に進出している(前掲『安田財閥』、『安田善次郎伝』)。