そもそもこの国立銀行は、元伊予宇和島の藩主の藩主伊達侯爵家の出資によるもので、当時伊達家はその財政の管理運営を渋沢栄一に委託していたので、本店を東京に、北海道に支店を設置したのも彼の意見によるものである。一は行務の発展を未開の地に求めたこと、一は本道の金融に貢献することでもって、「開拓の聖旨に副はんとしたことにあった」のである。士族主導型の大義名分であり、時代の雰囲気を感ずる。同国立銀行は明治30年7月満期継続で、株式会社第二十銀行として普通銀行となり、営業を続けた。その後本店が第一銀行(渋沢栄一の推進で設立)と大正元年9月20日に合併し、本道各地の支店は総て第一銀行に継承された。
これまで公金預りについて問題点として取りあげたが、第二十国立銀行も実際考課状において明治26年から28年までの3か年の間、やはり本銀行でも見られる。いずれも道内の支店の扱のみである。取扱出張所は明治26年下半季の実際考課状で判明した2か所は次の通りである
営業の特色は専ら為替および海産物、米穀担保貸付あるいは荷為替の取組みの業務に力を注いだ。当銀行では土地家屋を抵当としない。というのは、資本を固定化してしまうからである。
明治27年1月現在 頭取 取締役 | |||
姓名 | 身分 | 役名 | 住所 |
穂積重頴 | 士族 | 頭取 | 東京市神田区 |
佐々木慎思郎 | 平民 | 取締役兼支配人 | 東京市日本橋区 |
西園寺公毅 | 士族 | 取締役 | 東京市京橋区 |
桑折城方 | 士族 | 〃 | 東京市本所区 |
川杉義方 | 士族 | 〃 | 東京市浅草区 |
これらの身分をみれば、取締役兼支配人という実務の責任者のみが平民であるが、他は全て士族である(明治26年下半季より二十八年下半季『第二十国立銀行半季実際考課状』、『北海道金融史』、「函館に於ける銀行沿革」大正11年2月25日『函毎』)。