明治8年従来の靴や馬具用を使途とする製革の製法のみでは需要に限度があるとの判断から毛皮のなめし業も興した。同年5月西村貞陽は清国に視察にでかけたが、その際に張尚有と王直金の2名をなめし皮の職工として雇用することにした。1人月29円、半年間契約で採用されたが、両人は翌9年3月函館に着任した。彼らの手がけた毛皮のなめし製品は評判となり需要に応えたようである。半年の契約満了後、王は帰国したが、張はさらに契約を延長し、10年11月30日まで在函した。この間、9年3月「開拓使分局章程」の施行により、製革所は民事課勧業係の所管となり、さらに7月には懲役場(従来の徒罪場を改称)に所管替えとなった。そのため囚人中15、6名を選び、張に伝習するように命じたが、なめし皮工として来日したと主張したため、囚人を張に付けて使役させるにとどまった。なお明治10年1月の「函館庁員分課誌」によれば製革所修業人として中野才吉(月俸10円)、中村昌吉、保倉仁三郎、一ノ瀬忠一(以上同7円)、福井次郎、笹原忠寿(以上同5円)とある。張のなめし皮の製法については開拓使のお雇い外国人の黄宗祐が聞き取りして記録したものがあり、それには干皮と生皮の2種のなめし方が述べられている。張の帰国後は囚人のうち製法を少々会得したものがあり、なめし業を継続できた。
この当時鹿皮を原料とするセームレールは需要も多かったが、大半は輸入ものであった。開拓使は、鹿皮の資源が北海道では豊富であるためそれに注目して10年11月曽根清(『殖民公報』第17号では清国人としているが、『札幌昔話』によれば静岡県人で馬具師とある)を採用して、囚人をつけてその製造に当たらせた。