燧木製造所 一瀬朝春「函館燧木製造所図絵」より
燧木製造所の燧火ラベル
翌12年に製造所は監獄署に隣接した東川町242番地に建設されることになり、同年9月竣工して、名称を「燧木製造所」とした。なお燧木とはマッチの宛字である。竣工月の9月5日には運営規則の「燐枝製造所仮規則」を定め、所管を従来の監獄署から民事課とした。
製造所の概要は3601坪の敷地に、工場、事務所、物置場、製薬場等の建築物が296坪余であった。工場の内部は10区画に仕切られて、木挽、函詰、仕上場等からなっていた。なお15年の『函館県統計表』では敷地は1万7000坪、工場は301坪、付属施設を含めて計580坪となっているので、その後拡幅したのであろう。製造用器械類の購入は東京新燧社の手配により一切を国産品でまかない、同社の青地基治を招聘して技術指導を受けた(「旧開拓使会計書類」6333・道文蔵)。軸木の原材料には道産の白楊樹などを用いた。
9月28日時任大書記官をはじめ開拓使官吏立ち会いのもと開業式を執行した。「函館新聞」(9月30日付)はこの時の開業式の様子を報道して「…時任君の祝詞を朗読し次に樋口佐久間君等続て祝詞を読了りて後時任君は製造者玉林治右衛門を近く呼れ囚中に在り能此業を為したる殊勝の段を賞し猶向来を奨励されて式全く終り…」と玉林をクローズアップして取り上げている。なおこの式にはかつて玉林と江戸で同学であった肥田浜五郎が臨席していることも報道している。開業当時の職工は前述した伝習生徒3人の他に区民85人、懲囚41人の計129人であった。さて官立燧木製造所として始められたこの事業はその後どう展開したであろうか。
同年11月には製造マッチ4ダースを新燧社に送付して品評を請うたところ、「…御製造ノ摺付木四ダース御下与被成下正ニ奉拝収則試験仕候処至極宣敷御出来ニ相成奉感佩候…」(前掲「旧開拓使会計書類」)と好評を得た。東京出張所では新燧社の評価を得たところから、同所をはじめ札幌本庁や根室支庁での官用に函館の燧木製造所製品を用いることを指示し、また管下の需要も同所製品を用いることを奨励するよう指示した。
燧木製造所の経費は開業間もなく作業費に組込まれたが、11年段階では年3万5000ダースの計画であったものが、開業時には1年間の製造高は88万ダース(1日に3000ダース)と積算している。おそらく函館支庁の見積りに対して東京出張所の指令で増産を指示されたのであろう。作業費とは各作業所別に独立採算制を取るもので資本金額を定め、利益金をもって投下資本を漸次償却するという仕組みであった。年間生産予定に対して当初は職工の技術が未熟で、製造器械も充分なものとはいえなかった。また経費の積算も未経験な段階で始めたため、販売高に対して原料の高騰や賃金の上昇などの経費増があり、支出をカバーできず年々在庫高も増加していった。その後製品改良や製造器械の拡充も行われたが、欠損額の補填が不可能であり、運転資本が回転しないという悪循環のため14年12月に廃止された。この間玉林は13年10月に減刑という恩赦があり、民事課雇として月俸30円を支給されて製造事業に取り組んだ。懲役囚から官吏へと特異な転身をとげたのであった。しかし製造所の閉鎖後の同人の足どりは不明である。
燧木製造所はこのように充分な成果をあげず廃止されたが、それは作業費に組み込まれ資金運転が充分でなかったことや、また販路が思うように開けなかったことなどによった。しかし明治の20年代に入るとこうしたマッチ製造の試みは形を変えて道央における軸木を本州の製造所に供給するという原料生産の工業へと結実していくのであった。