煉瓦石・屋根瓦製造所

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 明治5年茂辺地村近傍で煉瓦や瓦に適した粘土を採取し、戸切地村の砂と合わせて試みに製造したところ実用に適するとなり、同村番外地3000坪(後に3500坪)の敷地に製造所を建築し、煉瓦などの製造を開始した。もっとも同地では文久年間(1861~1863)に美濃の陶工により煉瓦、瓦の製造が試みられているので、窯業適地として注目されていたわけである。明治6年に開拓使が豊川町に同所製造の煉瓦を利用して常備倉4棟を建築した。ところがその年に煉瓦壁の凍害のため工事途中で解体し、再築するという事故にみまわれ全体の完成は8年まで持ち越された。この間製造方法が改良され初期のものより精製されたものとなった。明治8年度の製造高は38万本余、そのうち19万本が官用と民用の需要に当てられた。また瓦も4万枚が生産された。しかし当時は輸出の道がなく、また経費から価格を算出すると高価なものとなり、需要増加も期待できず、9年には一時生産を中止した。
 ところが11年に東京で開拓使の物産売捌所を建築することになり、生産を再開することにして、8万本を東京に送った。これに対して同所の設計者のコンドルは粗悪品であると指摘したが、黒田長官の指令により使用された。再開後の11年末ころから道内でも煉瓦使用が顕著となり、さらに11、12年の函館大火により開拓使が不燃建築の奨励もしたため函館市中の利用もみられた。そこで函館支庁としても増産計画を立てたが、資金面などの問題を処理できず、計画は中止となり、14年1月茂辺地村村民の森兵五郎に貸与した。同所の煉瓦を利用して建築された建物として官用では函館警察署、燧木製造所、函館郵便局、函館支庁書庫(現存)など、また民間の建築物では金森洋物店(現郷土資料館)、魁文社、平田文右衛門店舗などがあげられる(遠藤明久「開拓使茂辺地煉瓦石製造所」『日本建築学会論文報告集』)。