12年の大火により、出願者はいずれも罹災したため、とりあえずは各自の営業復旧に従事した。火災による自己資金の欠乏や埋立経費に予定されていた出港税が街区改良事業に充用されることになったので、渡辺らは事業規模を縮小して計画を継続することにした。またこうしたこととは別に肥田は滞函中に発起人たちに、とりあえずは引揚げドックより仮製鉄所を作ることを勧めている(『初代渡辺孝平伝』、前掲「景況要略」)。この肥田の助言と大火という2つの要素から事業方針の転換がなされた。
復旧が一段落した13年4月に「海軍省所轄機械並地所拝借願」を函館支庁に提出した。大火の罹災により埋立計画が流れ船渠開設は当面不可能な状態となったので、代替地を真砂町に求めた。すなわち真砂町にある海軍省用地と機械類を借りて、当面は船舶用部品や小修理を目的とする「造船所」を仮設して営業を始め、汽船建造を可能とする船渠築造を将来の目標としようとするものであった(「開公」5911)。それは13年10月に定めた「函館港器械製造所開設仮規則」(「機械所書類」三菱総合研究所蔵)にも「器械製造所営業ハ蒸汽船及ビ風帆船製造ヲ専ニスト雖トモ、試業年限中ハ造船ヲ見合、海陸ノ蒸気器械開拓用ノ農漁具等製造修繕ノミ営業可致事」とあることからも明らかである。請願書の提出に先立ち、渡辺と平田は上京して肥田の助言を受けているが、この時に横須賀造船所の1等師桐野利邦と面談して種々の情報を得ている。
真砂町の海軍省の機械類は14馬力の蒸気機関や製材機械などであったが、これらは旧加賀藩の所有になるもので維新後に海軍省に引き継がれ、同省が七尾に造船所建設の計画を持っていたが、地理上の制約から断念し、函館での建設を意図して明治10年に同地から函館に移されたものであった(「太政官公文録」道文蔵)。ところが函館での計画は破棄されたようで、これに対し桐野は海軍省本省の機械類は充実されており、函館保管の機械類は不用となっているので、拝借許可は容易であろうと観測している。また東京石川島造船所の実質的な経営者である平野富二も明治11年の事業計画着手時から側面的に支援していた。これら一連の動きが前記の請願書に反映されたのである。
この請願内容は、海軍省所管のものであるため、函館支庁は東京出張所を通じて、海軍省への協議を依頼した。ところが榎本海軍卿は出願者の経営担当能力に難色を示し、容易に許可を与えなかった。そのため渡辺らは三菱会社に援助を請い、資金面でのバックアップを受ける確約を得た(明治13年「函館支庁文移録」道文蔵)。また請願書では機械類を借用したいとしていたものを肥田の指示で払い下げを受けることにした(『初代渡辺孝平伝』)。そこで同年7月28日付で追願書を提出した。これに対し、海軍省も許可の方向に傾き、9月に土地処分のために同省は石川利行主船局長を派遣した。この時榎本海軍卿も道内視察で滞函中であったため、函館で禀議を仰いだ。その結果真砂町の海軍省用地8076坪のうち4900坪が開拓使に返された。渡辺らは用地全体の貸与を求めていたが、開拓使はそのうちの3000坪を貸与することにした。あわせて地先海面の埋立を許可した(この地所は14年9月に払い下げられている)。出願に対する面積縮小の措置は三菱会社、風帆走会社等への貸与も並行して行ったためである。用地と同時に機械類が8000円で払い下げられた(前掲「函館支庁文移録」)。ちなみに当時の「函館新聞」(9月9日付)は機械類は時価数万円もするものを安価に払い下げられたと報道している。こうして真砂町において器械製造所の建設が着手されることになった。