営業状態は上記のとおりであるが、経営について触れておこう。製造所の経営は渡辺熊四郎、平田兵五郎、平塚時蔵、今井市右衛門の4名の発起者に平野富二および三菱会社が共同出資して始められた。「仮規則」によれば資本金は5万円で有限責任とし、13年10月から3か月は各自月に50円、14年1月から36か月は100円ずつ出資するとしている。そし3か年を試業期間として、それ以後は株主を募集して株式会社の形態を導入することが意図されている。不足金は借入金をあてるとなっている。14年10月には、それ以前から出資者として加入の確認をとっていた三菱の船本龍之助も加わり、6名体制となった。船本の加入した10月以降営業資本として試験期間中の3年間に各自が月100円、年間7200円を出資し、3年後は経常利益から各自に償却するという内容が取り決められた。また出資金で処理しきれない分は三菱函館為換店から融資を受けていた。一例として15年7月末時点で、同製造所は地所、所有品を担保物件として年利10パーセントで2万4000円の借入をしている(『三菱倉庫七十年史』)。また出資期間を3か年としていたが、採算ベースにのらず、さらに2か年延長された。明治18年「道路開鑿・函館器械所・函館水道敷設・亀田川末流転注書類」によれば出資の実態も平野は当初数か月出資したに過ぎなかったし、また平塚時蔵も家政の都合から17年1月で手を引き、船本は18年6月をもって経営から撤退した。さらに三菱函館為換店が17年11月に閉鎖されたこともあって融資の道も断たれた。その後受注状況も振るわず実質的に休業状態においこまれた。
同所の存続に関心を持っていた函館県は渡辺らから事情聴取をした。彼らは現今の不況下による受注の寡少にその要因があるとし、多数の職工を抱えているため、その維持にも苦慮していることを述べた。16年当初の職工が50名余であったものが18年の休業寸前の時期で86名と増加している。これは主に17年の沖鷹丸修理を請負ったために膨張したものと思われるが、造船所が総合産業としての性格を持つために各種職種別の工員を抱えざるをえなかったのである。一定の職工を雇用していなければ各種の受注に応じきれず、これに伴う経費支出があり、収入悪化をもたらす一因となった。また彼らは船渠を欠く造船所ということでおのずから受注の枠を狭くしているという制約を強調している。この点について函館県も同所の維持困難の事由として「…船渠ノ設ナキニ起因セルノミ、船渠ト製鉄所トハ併行共設セザルベカラズ、今此機械製造所アリ、製鉄事業ヲ托サントスルモ造船工事ノ大事業ヲ托スルノ船渠ナキガ故ニ需求者ヲシテ満足セシムル能ハズ」との認識にたっている(明治18年「親展文移録」前掲『函館県(工業・鉱業・雑記)』)。また渡辺らは自己の経営する本業のほうで、著しい危機感を持ち、当面本業に専念したい意向を訴えた。そこで函館県は、打開策を検討し、これまでの欠損金を県庁で補助することや海軍省からの発注を取るように働きかけること、あるいは製造所を補強するために渋沢栄一に船渠会社の誘致の働きかけをすることなどをあげているが(同前)、その実際の措置に関しては分からない。
こうした行政側の動きはあったものの、製造所は翌19年5月横浜で鉄工場を経営している田中百松が一手に借り受けて営業が再開されることになった。当初の事業計画にあったドックをそなえた造船所の設立運動は不況期を脱した明治20年代に再燃するのである。