函館氷広告
明治4年の夏に五稜郭産の氷が京浜市場に登場しはじめた。ちなみにこの年の移出量は670トンで翌5年には1061トンと産出量もほぼ倍増している(『イギリス領事報告』国立国会図書館蔵)。これらはいずれもイギリス、アメリカの外国商船で横浜に輸送されているが、開港場という函館の特質、つまり頻繁な外国船の出入という海運の利便さが彼の事業を大きく進展させる要因ともなった。
こうして函館氷は横浜や東京にも販売されはじめた。明治5年5月発刊の『新聞雑誌』第44号には「昨夏(編注・明治四年)横浜ノ氷会社ヨリ氷ヲ売出シ、其価甚ダ安ク、衆人ノ賞美大方ナラズ、此会社ノ発起人ハ、中川嘉兵衛ト云ル者ニテ、七八年前ヨリ、氷ノコトニ苦心シ……北海道ニ製氷場ヲ設ケ、大氷塊ヲ製シタリシガ、此計極テ機宣ニ叶ヒ、遂ニ大ニ発売スルコトヲ得タリ。……当夏、益々其業ヲ盛大ニナサントテ報條ヲ出シ、五月五日(編注・新暦で六月十日)ヨリ所々ニ於テ発売」と報道され、京浜での本格的な進出を知ることができる。この氷小売りは東京の佐藤終吉と共同して行われた。こうして4年、5年とボストン氷との販売競争が展開されたが、主なる顧客であった横浜の居留外国人や外国商船などからも評価され、輸入氷に比べて良質でかつ低廉な函館氷が京浜市場で評価されて、ついに「ボストン社中伏帰シ其意ヲ寄セ、而来函館氷ヲ以テ営業イタシ度旨申越候」(前掲「東京上局文移録」)という段階までとなった。ここでいうボストン社とは前に述べたボルベッキのことで、彼らがボストンから氷を輸入して販売していた関係から中川や柳田はボストン社と呼んでいた。明治6年にはボルベッキ商会へ500トン、そして太平洋郵船会社とも1000トンの売買約定が成立するまでになり、ここにボストン氷の駆逐に成功したのである。ちなみに明治5年の『米欧回覧実記』には同年7月にボストンを訪れた使節団一行が同地の氷製造の様子を視察し、日本に向けて輸出している事情を述べながら、著者は「函館氷ノ輸送盛ンナルヨリ絶タルヘシ」と付記して、その後日本へのボストン氷の輸出がとだえたことを証言している。販売の根拠地としていた中川については1872年(明治5)のジャパン・ディリー・ヘラルド発行の「人名録」(前掲『明治初期の在留外人人名録』)には横浜の「居留地17番 Yokohama Ice Company Kahei」と記している。このころにはかつての共同事業者であった岸田吟香とは離れて中川の単独事業となっていたようである。