氷専売の出願

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 京浜市場での地歩を固めた中川は、6年1月に、道内の氷移出に関しての専売願書を開拓使函館支庁に提出した。この願書は前述の経過を述べており、さらにそれまで自己資金を1万3000両余、社中金9000両を投じてきており「身代向ハ殆ド傾倒瓦解ノ姿」となり、自己資産も函館、横浜の両氷室と採氷器具類のみであり、これまでの損失分を回復するためにも今後10年間は北海道で産出される氷を一切社中で移出専売することを求めたものであった。また新規事業者の登場を予測してか、そうした場合は社中に加盟するという条件をつけ加えることによって過当競争を予防する布石をうった。これに対して5か年の専売を認める許可が同年2月13日付で出された(前掲「東京上局文移録」)
 中川は専売特許の対価として、開拓使に対して氷100トンと氷商業冥加金200円の上納を申し出たが、金納とするように命じられたので、氷100トンの原価を250円として計450円を氷専売税として上納することになった。専売期間が5か年と短縮されたが、出願が容易に許可された背景には開拓使の新規事業への保護政策とともに、中川自身が明治5年以降函館支庁の横浜買物用達を勤めていたことも有利に作用した。中川はこのころに横浜から東京に移った。
 この氷専売許可を契機に中川は経営基盤を確立するために各種の方策をとった。まず東京方面での需要増加を見込んで東京箱崎の開拓使用地に氷室を建てたのを皮切りに、函館においては豊川町氷室の前方の海岸に荷揚場を私設して、迅速な氷積み出しの態勢を整え、また五稜郭から氷室までの運搬経路の整備にも取り組んでいる(明治6年「市中諸願伺留」道文蔵)。またこの豊川町の氷室の所在地が中川の函館における寄留先でもあった。のちに元町に居住するようになるが、東京を本拠としていた関係から函館では北原藤助を総代理人とした。
 この他五稜郭での採氷権を獲得するための一連の動きをしている。前述したように中川が五稜郭で事業に着手する前の3年2月には函館市中のものが採氷している。この例で分かるように官有地である五稜郭は官許さえ得れば何人でも採氷は可能であった。こうした状況に対処するために中川は4年の五稜郭の採氷に成功すると、同年7月に五稜郭の周囲の堀を拝借する旨の願書を開拓使に提出して、ただちに許可を得ている。
 さらに6年には外堀を私有地として払下げるように出願した。ところが同年12月に五稜郭が陸軍省の管轄となり、五稜郭外堀の上地を命じられた。このため中川は翌7年1月に仙台鎮台から陸軍中佐が引き渡しを受けるために函館へ出張した際に嘆願して、従来通り堀の使用権を認められたのである(「開公」5810)。こうして中川は外堀を私有地化することはできなかったが、以後22年に使用権を失うまで五稜郭での採氷を継続しえたのである。