30年代になって、それまで使用された関西地方が主産地である和蝋の需要が次第に減少し、安価な石蝋の使用が増加したので、石蝋の製造戸数は35年冬から急増し、区内では10数戸に達した。石蝋の製造は、30年に弁天町の蛯子和右衛門が原料を横浜から購入して着業したのがはじまりであるが、35年にハウル商会が原料の販売を開始したため便利となった。製造方法は簡単で、真鍮製の製蝋器と二重鍋を備えればよく、原料のパラフィン蝋とステリアン蝋を熔解・冷却することにより製品ができるので、職工は老人または12、3歳の少女で十分であった。販売先は区内をはじめ、道内、下北方面であった。その製造額は表9-37の通りである。