第3期は規制

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 31年は新規則が調査中とのことで、旧規則が1か年適用されるが、6月には営業税率の改定を布告し、この実施をみた32年には樺太島の最良漁場であったアニワ湾内5か所とホロナイ川口海浜漁場をロシア人クラマレンコに許可した。日本側の抗議に対する回答は、「樺太島ニ於テ是レ迄日本漁業者ニ漁業ノ許可ヲ与ヘ来リシコトハ一ヵ年間ノ期限ニ止マリ何等ノ権利ヲ与ヘタルコトモナク又約束シタルコトモナシ、営業上ノ設備ヲ為スコトハ漁業権ガ相当ノ長期間保証セラレタル場合ニアラザレバ認容セラルベキコトニアラズ、故ニ日本人ハ露国人ニ損害ヲ来スコトナク又露国人ニ許可セラレタル区域外ニ於テ其ノ営業継続スルヲ得ベシ」(前掲「薩哈嗹島本邦人漁業沿革」)であった。この年、奪取された漁場以外は前年通り許可されている。しかし、32年11月には黒竜江総督は新漁業仮規則を発布する。その第13条には「露国人ハ外国人ニ対シ優先権ヲ有スルコト」とあり、さらに第15条で外国人に対する課税額の強化がうたわれて、これは日本人の漁業禁止に等しい規則であった。日本政府は種々抗議するとともに、外国輸入塩鮭・鱒および締粕に重税を賦課する法案を議会で議決する等の対抗策をとり、漸く従来日本人の営業した漁場に限りその実施を3か年間延期すること、課税額は内外人の差別をなくすることとなったが、魚族保護の名目で33年の許可漁場数は前年より50余か所減少となった。こうして34年の漁場数は32年に半減する状況となるが、この年の11月に黒竜江総督より海産仮規則がさらに発布された。この規則は以前の規則を上回るロシア人優先の徹底化をはかるものであり、日本側は外国領海水産組合法による水産組合の設立(日本人漁夫をロシア側は使用できなくなる)で対抗した結果、35、6年は新規則の実施が延期された。この間にロシア人名儀の漁区は増加し続け、34年56か所、35年70か所、36年78か所で日本人名儀の漁区に近い数になった。ただし、漁業権の名儀がロシア人であっても、後述するようにデンビー、クラマレンコを除いては資本に乏しく、労働力をはじめ漁業仕込物資一切、それに製品の販売市場まですべてを日本に依存するのが実態であった。
 日本政府はこうした不安な状勢を打破しようと、明治28年から日露漁業条約案の提出を試み、ロシア政府と毎年のように交渉しているが遂に成立せず、日露戦争におよぶのである。日露開戦のため、明治37、8年の樺太出漁は休止された。なお、出漁漁民も漁業権確保のため、明治13年に結成された出稼漁業者寄合を16年にはサガレン島出稼漁業組合に、31年にはサガレン島漁業組合に、さらに35年にはサガレン島水産組合に改め、種々の組合活動を展開している。組合事務所は函館、コルサコフ、シスカの3か所におかれていた。組合総代の内山吉太は36年には代議士になるが、コルサコフ領事とともに外交交渉に、また政界折衝に活躍した。ここで、次の出漁の項に関連する内山の文章を引用しておく。「サガレン島漁業の困難なる遠洋漁業に譲らず、監獄島とも呼ばるる如く、全島に無数の猛獰なる囚人を放ち、喰人島とも云ふべし、開港場コルサコフ港より各場所に至る間、航海頗る難渋にして時に凍氷に束ねられ……生死の間を出入することあり、只遠洋漁業と異なるは投網の場所沿岸にあるの一事のみ」(内山吉太『サガレン島漁業事情一班』)。