オットセイ猟船 『膃肭獣猟業沿革及其将来』より
明治27年、函館駐在のイギリス領事が本国政府に送った報告書には、明治25年、本州の北東岸三陸沖合に来航したアメリカのオットセイ猟帆船4隻が、初めて函館に入港したことを伝えている。当時、アメリカなどの猟帆船が日本近海に来航するようになったのは、明治19年、ベーリング海において、アメリカ取締船が、イギリス猟船を拿捕したことから生じた紛争によるもので、24年両国政府は、その紛争処理を国際仲裁裁判に委ね、その裁定が下りるまで、同海域におけるオットセイ猟を禁止することになったが、そのため、従来、ベーリング海で操業していたアメリカ・イギリス両国の多数の猟帆船が日本近海に進出するようになったのである。
これらの猟帆船は12月末から翌年1月初めに英領ビクトリアや、サンフランシスコなどの母港を出帆し、2か月の太平洋横断航海の後、横浜、あるいは小笠原諸島に立ち寄り、食糧、薪水などを補給して金華山から三陸沖の猟場に向い、6月末猟を終え函館港に寄港した。そして捕獲した毛皮の積荷を降ろし、再び食糧、資材などを積み込み、千島列島からカムチャツカ半島沿いに猟を続け、10月ないしは11月にそれぞれの母港に帰港していた。
表9-73 日本近海の外国猟帆船の来航状況
年 次 | イギリス | アメリカ | ハ ワ イ | 日 本 | 計 |
1893 (明治26) 1894 (明治27) 1895 (明治28) 1896 (明治29) 1897 (明治30) | 14 13,884 32 40,045 23 18,940 22 17,193 11 7,588 | 22 18,587 26 18,827 17 9,509 10 4,696 3 1,576 | 1 3,212 | 3 1,078 5 2,705 5 2,247 8 2,997 | 37 35,643 61 59,950 45 31,154 37 24,136 22 12,167 |
函館駐在『イギリス領事報告』(1895~1897)より作成
上段は船数、下段は噸数
函館に入港する外国の猟帆船は、その後年々増加して明治26年には37隻、27年には61隻に達している。しかし、このような猟船の増加に伴い、資源の減少や乗組員賃金の高騰を招き、採算性の悪化とともに、来航隻数は次第に減少し、明治28年には45隻、29年には37隻、30年には22隻、31年には函館に入港する外国猟帆船の姿は全く見られなくなった(表9-73)。
この時期、日本近海に進出した外国の猟帆船に対し、官民あげて危機感をもち、これを排除しようする動きも活発になったが、この時期の函館にとっては多大の利益をもたらしたようである。例えば、当時の新聞は、
外国猟船は千島における我がオットセイ獣蕃殖地を廃絶せしめ我が沿海において海獣猟の利益をろう断し去るといえども彼らは又其所得の幾分を我に分配するものたる事を忘れるべからず、即ち毎年六月の頃数十艘の外国猟船が我函館港に入るや彼らは食糧器具其他雑品を求むるを以て函館に於ける幾多の商人に物品を販売其利益を得る蓋し鮮少にあらず、既往数年間を平均して各商店の売上代金総額を聞くに毎年七万七千円にのぼるといひ各猟船乗組の銃手及び水夫等が函館に於いて消費する金額は更にこれより多額に上るべしと、故に外国猟船が函館に於いて消費する所の金額は実に十五万円に下らざるは事実に徴して明らかなり、此他横浜に於いて出猟準備の為めに消費する金額も亦少なからざるべし、是れ実に外国猟船来航の為めに本邦人の得る所の利益にして軽軽看過せらるべきものにあらず故に実際上外国猟船は我国産物を全然奪うものにあらず、却って其利の幾分を分つものなりというべし、故に昨今両年の如く外国猟船の著しき減少を来すと共に函館商人の一部が少からざる影響を受け不景気の一因にも数えられるに至りし… (明治31年1月16日「北毎」) |
と伝え、函館港に出入した外国猟船が、函館の経済と市民生活に多大の利益をもたらしていたことが窺われる。また、このような多数の外国猟船が函館に寄港したのは、函館港が、古くから内外の物流の拠点として、また毛皮の輸出に必要とされる貿易港の諸機能を備えていたことによろう。