ロシア語科の新設

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 次に函館学校に併設されていたロシア語科について見てみよう。3年開拓次官に就任、樺太専務を命じられて樺太を見聞した黒田清隆は、雑居地である樺太の統治にはロシア語に通じることが不可欠であることを痛感し、ロシア語に通じた官吏育成のため、当時ロシア領事館が開設されていた函館にロシア語の学校を開設しようと、5年2月、次のような伺書を太政官に提出した。
 
北海道及び樺太開拓ニ付テハ、樺太ノ儀魯人雑居ノ地にも有之、魯語不相開候テハ往々不都合ノ儀も有之候間、於函館魯西亜語学所取建、魯人ノ内教師一名御雇入相成候様取斗度、此段奉伺候也
   壬申二月九日
黒田開拓次官            
     正院御中
(「開公」五七三三)

 
 この件は「伺ノ通」承認され、8か月後の10月16日、「今般於学校内、露学開設候ニ付、官員ノ子弟有志ノ者来学スベシ」と、とりあえず函館学校の中に専門学科としてロシア語科(当時の文書類では「魯学」または「露学」となっているが、本文ではロシア語科とする)が新設された。スタッフには3等訳官田中清、12等出仕三野又一、14等出仕諸岡篤三、15等出仕東虎雄、御用係緒方惟孝(緒方洪庵の次男、最初のロシア留学生のひとり)ら日本人官吏があたることになった(前掲「開拓使事業報告書 乾」)。特に教師については前述の伺書でも触れているように、開拓使としては函館に居留していた「魯人ノ内」から1名採用の予定であった。設置認可を伝える2月10日の東京出張所からの書簡にも「御地居留魯僧ニコライ義倭語をも相通シ、兼テ書生教授ノ手続申込有之義ニ付、同人を教師ニ御雇相成候方可然」と、「彼ノ語学ヲ教フル外、教法無用」の条件で、函館に滞在していたハリストス正教会のニコライが教師に推挙されていた(「開公」5733)。しかしロシア語科の教員に推挙された時期のニコライは、伝道会社を設立、その拠点を東京に移して日本国内における本格的な布教活動に入ろうとしていた時期であり、すでにこの5年1月には、後任のアナトリイに函館の布教活動を一任して函館を離れていた。結局、専任のロシア人教師を得られず、急を要した官吏・官員のロシア語教育のための「学所」は、とりあえず日本人スタッフによるロシア語科という形でスタートしたのである。
 なお文久元(1861)年来函以来のニコライのロシア語指導は有名だが、ニコライの一時帰国で途絶え、再来函した明治4(1871)年2月以降に再開されている(『日本正教伝道誌』)。この時も3月から稽古に通っていた土肥百之と来見幸蔵を「春秋ニ富ミ才智モ有之…必ズ他日営業熟練致シ国器」になると思われるので、ロシアに留学生を送る時には必ずこの2人を加えて欲しいという書簡を杉浦権判官あてに送るなど(地崎文書「検印録」札学蔵)、精力的にロシア語指導をしていた。