サルトフ着任後のロシア語科は徐々に盛況となり「殊ニ初学ノ者多分ニ有之候間、初学ノ書籍無之テハ差支有之」と、サルトフから地球儀、万国地図をはじめ幼年会話書など10数種類300余部の書籍購入要求が出される(「開公」5798)など、外国語学校としての体裁を整え始めた。そのため函館支庁は、東京か札幌に開設を希望した前述の「函館学校改革案」を支庁の「権宜ノ所置」を以て一部改正し、8月12日、函館学校を使ってロシア語学校を開設することを布達した(明治6年「御達書留」)。翌9月には、ロシア語学校の学校仮規則・内則も決まり、9月24日、ロシア語学校開校を伝える達と仮規則が市中に布達された(同前)。こうしてロシア語学校が開校されたのである。
布達文および仮規則によると、ロシア語学校の入学対象者はとりあえず「官員ヨリ農商平民ニ至ル」有志の者で、「年齢十三歳以上二十歳以下」に限り許された。教科はロシア語・数学・地理・歴史の4科で、授業料は入塾・通学とも月額25銭(翌7年3月12銭5厘と改正)、入校日は「毎月六ノ日」で、入学の当日は「礼服着用」のこととした。「農商平民ニ至ル迄」一般市民の子弟の入学も許されてはいたが、仮規則の第1項に「生徒学術成業ノ上ハ、開拓使ニ奉スル旨以テ主意トスベキ事」とあり、あくまでも主意は官吏の養成にあったものと思われる。
幕末から明治初年にかけ全国的に外国語を重視する傾向は強く、政府をはじめ各藩・各県あるいは民間においても外国語を主とする学校や私塾が多数開設されたが、これらの指導の主力はあくまでも英語で、この時期ロシア語専門の外国語学校としては、函館のロシア語学校は唯一の学校であったと思われる。たとえば、嘉永3(1850)年我が国で最初にロシア語教育を開始した仙台藩の養賢堂は明治4年に廃校、また慶応年間ロシア語を含め5か国語を教授していた長崎の済美館は、「学制」制定後中学校となり、7年長崎外国語学校さらに長崎英語学校と改称した。一方江戸にあった開成所はロシア語を含む5か国語をはじめ他の学科を教授していたが、維新後復興した時は英語・フランス語のみの教授で、「学制」制定後は開成学校と改称し中学校となった。この開成学校の下等学級と外務省の外国語学所(明治4年開設)を合併し、6年11月に開校したのが、イギリス・フランス・ドイツ・ロシア・中国の5か国語を教授した東京外国語学校だった。
さて、開校したロシア語学校の景況について函館支庁は、「教師サルトフ氏甚勉励いたし隨テ生徒も日々相増、追々盛大ニ赴ク景況ニ御坐候」と報告している(「開公」5756)。ところが翌7年1月29日、サルトフは脳溢血で急死、ロシア語学校は一時休校となった。
サルトフの後任が見つからないまま翌2月9日に再開した函館のロシア語学校だったが、とりあえずロシア語科開設当時からの三野又一、諸岡篤三(8年1月17日辞職)、東虎雄らの日本人スタッフで続けられたようである(各年「函館支庁日誌」道文蔵)。