改革案が認可された函館支庁は、早速6年8月、師範学校卒業生の派遣を依頼、開拓使も「函館表ノ義…学制ニ拠リ小学取設候処、同地ハ開港場ニテ人烟稠密且外国人モ数多居留ノ義ニ候ヘハ、文学振興教導行届候様可有之ハ勿論、追々此地ノ教則ヲ以全道ニ権及候見込ニ有之」(「開公」5756)と付言して、文部省にその旨を依頼した。しかし全国的な小学校の開校により師範学校卒業の本教員が不足、文部省はその年9月末「卒業ノモノ出来次第」派遣すると回答してきた。この月、小・中学校校舎用に称名寺の一部を借り上げていた函館支庁だったが、教師が決まらず開校に着手できず、翌10月東京上局あてに「本教師無之テハ都テノ体裁も不相分義ニ付、小学開校ハ見合、来年教師到着次第直ニ開校」することにした旨の書簡を送り、具体的に開校を指示できる教師の着任まで小学校の開校を延期することにした。
7年12月2日、東京で採用された師範学校第1回卒業生城谷成器(12等出仕)が函館在勤を命ぜられて着函した(明治7年「函館支庁日誌」道文蔵)。派遣依頼をしてから約1年半後の教師の派遣であった。城谷はとりあえず富岡学校(第1節1参照)の教員に就任、城谷を中心に吉田元利(6年8月小学教員拝命)らが集まり、小学校開校のための打ち合わせが始まった。翌8年1月12日、「校舎には称名寺の建て家を借用した富岡学校を使用する予定だったが、永続の目的を以て、会所町一五の官舎を修繕し使用したい」、「校名は所在地所名より会所町学校としたい」、「他の尋常学校とは異なり官費設立のため官立学校の体裁になるが、わずかでも授業料を徴収する以上は純粋の官立とはいえないので、北海道在籍だけでなく寄留の人の入学も許可したい」、「会所町学校規則は富岡学校の規則を折衷し、学則は全く小学教則により制定した」など打ち合わせの結果を数か条にまとめた小学校開業に関する伺いが長官あてに提出された(明治8年「長官伺録原書」道文蔵)。
この伺いに対し、校則・学則の一部訂正と校名は「会所学校」とすることという「但書」が付いたが、8年3月2日「伺ノ趣聞届候事」という裁可を得、ようやく函館にも小学校が開校することになった。「学制」の公布から約2年半後のことだった。この時期は全国的にも小学校開校に力が入っていた時期で、6年末約1万2500校だった小学校が、8年には約2万4300校とほぼ2倍に増加している(『学制百年史』資料編)。