新設小学校

1228 ~ 1229 / 1505ページ
 函館県時代の新設小学校は、幸小学校と高砂小学校の2校で、西部地区の児童のために開校していた常盤学校が12年の大火に焼失後、鍛冶町61の神明社の跡地に4年めにしてようやく開校した公立小学校が幸小学校だった。この幸小学校は、元町の女子小学校を県立函館師範学校の付属小学校とし、それに代わる学校の新築費として函館県より下付された3308円5銭を元に新築された学校である(明治16年「函館区役所伺届録」道文蔵)。16年9月20日落成し、弥生小学校の初等科の児童100名も移し、9月25日に開校した(「函館県函館区小学校沿革史」)。
 高砂小学校は、小学校が無い6部内(鶴岡・若松・海岸・音羽・高砂・大縄各町)に須佐伴助、沢清司、沢田重吉、野口貞翁、大宅民蔵、井ノ川伝右衛門、石川小十郎が発起人となって、16年1月13日、音羽町66の稲荷堂に仮学校(児童50名ほど)を開校したのに始まる。翌16年4月、部内共有金と有志の醵金約1000円をもって杉村左右衛門の寄付地に4教室を備えた新校舎建築の工を起こし、9月新築移転、10月8日開校式を挙行した(同前)。しかし不景気を反映、寄付金はおもうように集まらずその上建築費用は予定額を上回り、新築落成はしたがその後の維持費を捻出できず、ついに発起人一同より公立へ編入の出願が区役所へ提出された。当時永国橋以東には宝・東川の2小学校のみで、新しい学校が欲しい地域だったことと、前述の「学区規則」で、初・中等科併設校は7校と指定されていた関係もあり、区は高砂小学校を公立に編入し協議費を以て維持したいと区会へ諮問、決議を得(明治16年12月20日付「函新」)、翌17年1月から公立高砂小学校となった。
 こうして函館は、民間が新設した学校を区が引き継ぐ形で公立学校を増加していった。
 この時期全国的に広がっていた経済不況は17年ころ頂点に達した。そのため地方財政の多くを占める教育費の節減のために18年8月「教育令」は再び改正されたが、この教育令の施行期間は短く、翌19年には新たに「小学校令」が公布された。