開拓使の保護奨励もあり学業は進展したが、学校の実情は大火による校舎新築などの出費がかさみ、練習船も持てず商船学校としての機能を十二分に発揮しきれない状態にあった。一方船舶数の増加にともない海員の養成はより必要を極めた。この海運界の要望に応じるためには学校の規模拡大や施設の充実しかなく、自分たちの資力では限界であると考えた小林重吉・田中正右衛門ら31名の関係者は、学校の一層の発展を期して商船学校資金に毎年1000円ほどの寄付をすることにし、15年9月、商船学校の管理を函館県へ移管したい旨請願した。翌16年4月主務省の裁可を得て、5月28日、私立商船学校は函館県所管の函館商船学校となった(『函館県第二学事年報』、16年11月18日付「函新」)。
県立函館商船学校の教師陣は2等教諭中山信成が校長心得を兼務、3等教諭野々村雅言、3等助教諭吉崎豊作、書記兼3等助教諭中里広運で、山中と吉崎は私立時代からの継続だった(明治17年『函館県職員録』)。翌6月には「函館商船学校規則」が布達され、教科を本則・変則の2部とし、定員30名(自費10名、貸費20名)、入学資格は14歳以上25歳以下で、小学中等科卒業以上の学力を有する者とした。本則科は修業年限5年、2年までは学校で修学、3年以降は実地修業とした。私立の頃と比較すると学業の面にも力が入り、和漢学・英学・数学・測量・運用学・技術および実地修業と広い範囲の修業科目となっている。変則科は「臨時来学ノ海員ニ簡易ノ航海学科ヲ便宜教導スル為」に設立したもので、入学随意のため、測量と運用に分かれた学科表によって各自「便宜教導」というシステムだった。
校舎も従来の場所では狭隘なため、鍛冶町と旅籠町にかかる区立小学校付属地1000余坪を転用して新校舎を建築、16年11月14日、開校式を挙行した(11月14日付「函新」)。
なお函館商船学校の県立へ移管の請願が出されたころ、海運界の需用増大にこたえ、国も本格的に海員養成にのりだし、15年三菱商船学校を農商務省へ移管して東京商船学校と改称、その体裁を整えている。