教育協会設立への胎動

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 ともあれ、この教員練習会の存在を前提として、それが函館教育協会の設立にまで発展してゆくのは、前述のように明治14年に入ってからのことである。同年9月、函館区富岡町5番地の北溟社(いうまでもなく函館新聞の発行母体である)内に「仮本局」を置く北海道学事新報社が創刊した『北海道学事新報』第1号(9月21日発行)の「雑記」欄に、次のような記事が掲載されている(なお、この『学事新報』は、事実上は教育協会の「代用機関雑誌」であったが、この点は後述)。
 
○当港の官立師範学校教員及び各小学校教員方数名申合され、函館に教育協会なるものを設けんとの企にて、其目的ハ教育に熱心なる有志者を集合し、広く教育上の事理を講究せんとするに在りて、已でに会則等も有志者にて会議を開き、審議討論の末去十三日決議しぬれバ、近日其筋ヘ届の上開会の順序なりといふ。斯る会の興起するハ、当道教育の益々振起する基と喜ばしく存し升。

 
 この件に関連して、前記の『函館教育協会沿革史』(以下、『沿革史』と略記)は、次のように記している。
 
函館教育協会は村岡素一郎外十六名の発意にかゝり、明治十四年九月七日同志相会して創立に関する協議をなし、翌十日より十四日に至る五日間、会則其他を討議し、創立委員三名を選挙した。村尾元長、原直次郎、前田憲の三名が其選に当つた。

 
 これらの記述から、14年9月14日頃までに函館教育協会設立のための基本線が、ほぼ確定されたものと考えられる。ちなみに協会の創立委員に選ばれた3名の内、村尾元長は当時開拓使14等属の地位にあり、後には北海道庁第1部記録課長兼庶務課長心得などを歴任し、『北海道漁業志要』等を編纂した人物として有名である。
 さらに同年10月、全道の教育会議が函館で開催され、「札幌及根室支庁の学務官吏訓導学務委員等数十名」が来函したが、その際、先に「創定せる『函館教育協会』の規程に就き謀る処あり、奥本英之助外十名の賛成を得、之を原案となして協議を重ね修正の上、役員を選挙した」(『沿革史』)。その結果選ばれた役員は、会長-村尾元長、副会長-村岡素一郎(師範学校監督)、幹事-前田憲・原直次郎、書記-吉田元利・岡野敬胤の6名であったという。
 そして、協会事務所を区内富岡町5番地の北溟社内に「仮設」するとともに、会則、役員、その他の必要事項を届出るなど一切の創立事務を完了し、設立認可がなされたのは、明治14年11月3日のことであり、函館在住の会員は「僅か三十余名、地方会員合せて五六十名に過ぎぬささやかな教育団体」(同前)として出発したのであった。
 『函館教育協会沿革史』は、自らの創立史について以上のように述べている。