寺院にみる開拓・開教の論理

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 北海道における近代開拓=開教の歴史は、明治期に入ってから始まったのではなく、既に幕末の時点に始動していた。すなわち、「蝦夷地ハ御国内ノ藩屏、殊ニ外国ヘ接壤致し居候ニ付、万一ノ義有之候節、御国惣体ノ憂ニ相成候間、上下一統ニテ其憂を荷ひ、全州ノ力を併せ、一時ニ御取開相成候より外有之間敷(後略)」(「蝦夷地御開拓諸書付諸伺書類」『新撰北海道史』5)という安政年間の第2次幕府直轄期の一文に端的に示されているように、鎖国制の瓦解を目前とした幕権の思念する北海道に対する期待は、北辺防衛と一体となった「御取開」、つまりは開拓の進展にあった。この幕府の至上命令たる開拓奨励を最も敏感にキヤッチしたのが、他でもなくその時期、箱館の風下に置かれて劣勢を余儀なくされていた松前城下の寺院であった。
 松前城下の法源寺と龍雲院は、幕府の開拓奨励策を、おのれの寺勢回復ないし拡大のエネルギーにスイッチすべく、こう開陳した。時に安政4(1857)年。
 
西蝦夷地ノ内ヘ拙僧共自力を以庵室一宇宛取結弘法作善相営、天下奉平、国土安穏ノ祈願専ら相勤、且ハ御法度ノ切支丹宗門等勿論相改、常々夷人ニ至迄勧善懲悪ノ教諭仕度奉存候(中略)檀家ノ者ヘモ夫々申諭田畑開発ハ不及申、樹木植立等ニ至迄丹誠為致度、又ハ山道嶮岨ノ場所柄ニハ石像等モ安置為致、左候得ハ有信ノ者共、自ト屯致し末々村落ニモ相成候ハバ、自然御開発ノ趣意ニモ相叶…
(「法源寺公宗用記録」『松前町史』史料編一)

 
 つまるところ、庵室の造立→田畑開発・樹木植木→村落形成という脈絡からなる、まさしく寺院の開教=地域の開拓という論理を松前城下の寺院は展開したのであり、この論理こそは、近代北海道開教史の出発点であった。
 このような寺院の開教=当該地域の開拓という論理は、近代に入ってどのように発展的に継承されてたのであろうか。 明治初年は神仏分離の断行期ゆえ、寺院側が必然的に神社に対して劣勢に置かれることは必定であったから、当該期の寺院は、函館であれ札幌であれ、その地域の別を越えて、共通して前の松前城下寺院のような開教エネルギーを各々の内側に蔵していたことであろう。その具体的結晶が前掲の函館の寺院による14か寺の末寺形成であり、総和としての91か寺の近代寺院建立であった。