当地(函館)崇敬社ノ義、亀田八幡宮ノ方可然御心得ノ内、同社ハ旧社ノ趣ニハ及承候得共(中略)内澗町八幡宮ノ義ハ北海道惣鎮守ノ義ニ付(中略)亀田村八幡宮ヲ崇敬社ニいたし候義如何ニ有之、神霊無二ノ義ニ付、社頭ノ新旧ニ不依、人ノ崇敬スル所、自然ノ崇敬社ニ可有之歟、地形ニ寄候テも、内澗町八幡宮ハ、函館ノ中央ニテ当庁ヘも近ク、氏子戸数二千軒余有之、亀田村八幡宮ハ、東偏村落中ニテ、氏子戸数九百軒余ニ有之候、殊ニ内澗町八幡宮ヲ普通ノ社ニ引下ケ候ニハ、朝廷・社頭・氏子等ヘ対し候テも、当使ノ失言・失信ニ可相成歟 (明治六年「神社改正調」) |
この中で注意すべきは、第一に、亀田村の八幡宮と内澗町の八幡宮とが、「崇敬社」という社号をめぐって内なる確執を演じていたことである。第二は、杉浦が開拓使中判官の政治的立場で、伝統の古さを誇る亀田八幡宮よりも、「北海道惣鎮守」であり町域の中央に位置し、しかも氏子数の多い内澗町の函館八幡宮の方に「崇敬社」の軍配を挙げようとしたことである。結局のところ、杉浦中判官は開拓使の威信をかけて、「崇敬社」をめぐる内なる社格問題に決着をつけてこの確執はひとまず決着をみた。
社格の問題は、このように身近なところにも存在するごく日常的な問題であったのである。
函館における内なる社格騒動は、こうして一件落着したのであるが、それでは、前の函館八幡宮と札幌神社との、外なる社格係争はどう決着したのであろうか。