去ル庚午十一月中、当使添書ヲ以同社神官ヨリ弁官ヘ申立候書面中、全島総社、又肩書ニ函館総社ト有之候ヘとも、(中略)全体総社ト申儀ハ、往昔国司下向ノ節、府庁側近国衙等ノ在地官社ニ於テ、郷祭国祭ニ可預神祇ヲ招請、合祭国司如在祭奠可為行候社ヲ総社ト称ス(中略)主神一社ノ称ニハ当ラズ、加之御一新来追々御改正相成、官国幣社并府縣郷村社ト宮社ノ格御一定、就中札幌ニ本府ヲ被置、札幌神社ト称シ開拓大神ヲ勅祭御鎮座被為在、官幣社ニ被為列、此上ハ他社ニおゐて仮令全島鎮守或は総社ト称シ来ルトイヘトモ、公然タル称号ニ無之ハ断然廃止スベク候 (『神道大系北海道』) |
幕末以来、「箱館総社」=「蝦夷地惣鎮守」と声高らかに唱えてきた函館八幡宮が、内なる社格争いにおいては「函館崇敬社」の社号を付与されつつも、札幌神社との外なる宿命的な社格争いにおいては、旧来の称号を全廃するよう命じられたのである。
この函館八幡宮の「惣社・鎮守」称号廃止のもつ意味は決して小さくない。なぜならば、この函館八幡宮の称号廃止は、1社の称号廃止を超えて、近代北海道の神道界のタテなる序列が不動のものとして決定づけられたことを意味したからである。近代北海道の神社の世界は、札幌神社を頂点にして、タテに連なることを政治的に序列付けられ、近世以来の在地的主張は一掃されたのである。時に明治6年のことであった。
明治6年に近代的な神社序列の中に組み込まれた函館の神道界に、ひとつの朗報が届いたのは、それから4年後の明治10年のことであった。函館八幡宮が近世以来の残滓を払い落として、国幣小社に列したのである。