実際、教導職の人たちはどのようにして「三条の教憲」を敬信の徒に教え示していたのであろうか。その内部に少し立ち入ってみることにしよう。
「講社心得」によれば、各敬信の徒は地域ごとに講を結び、その代表者として講幹を選び、この講幹を中心に日常の生活を行ない、毎月1日に神社に参詣するよう決められていた。講幹を補佐する者として、講社世話役掛がいた。
このように、教導職による説教が行なわれる受け皿として、講幹-講社世話掛を中核とした地縁的な講が結成されていたのであるが、説教の日には、舞台となる講席が当然ながら設営された。つまり、講殿の上座には「神座」を設け、そこに神鏡・御酒・洗米を供え、講殿に幕を張るとともにその外には旗を建てる。講師は神座に進み出て、「天祖」を礼拝した後「三条の教憲」を奉読してから講義を始める。講師が「三条の教憲」を奉読する時には、教徒一同は礼拝しなければならなかった。講義が終わったなら、講師は再び神座の前に進み出て、「天祖」を礼拝し、その後、祝詞を奉読して説教は全て終了するのである(明治6年「教部省関係書類」道文蔵)。
教導職の人々による説教はこのように、厳粛にして神々しい雰囲気の中で執り行なわれたのであるが、この教導職が陣取る機関は他でもなく中教院である。函館中教院=願乗寺が、いうなれば函館を中心とする渡島・桧山地域の教導センターになっていたのであり、この函館中教院の内部機構は、常務・講究・計算の3掛に分かれており、全体を「教正」が統轄していた。3掛のうちで、講究掛が要であることは言うまでもなく、この講究掛の講師として大教院より、神官・僧侶1名を派出して教導布教をはじめ、明日を担なう教導職の予備軍である当該地域の神官・僧侶の教育に当った(藤井貞文「明治政府の北海道布教」『国学院雑誌』64-506)。
一定の教育を受けたのち、神官・僧侶は、教導職を拝命することになる訳であるが、その手続きはおおよそ、次のようになっていた。
開拓使管内には神官・僧侶の教導職取締者がいなかったため、教部省・大教院から派遣されてきている中教院の教導職が、それぞれの推挙状を作製して開拓使に提出し、それを開拓使で一定の書類検査した上で、中教院において筆記試験を行ない、その結果を学術(皇学または仏学)、性行(温良・正直・清廉)、履歴の様式で認め教部省に申請する仕組になっていた(「開公」5776)。
以上のように、函館地方においても、説教費用の捻出方法の上で相当な苦難を余儀されつつも、函館中教院を拠点としながら、地縁的な講を結ぶなどして本州並みの教導布教がなされ、神々の装いと表裏一体の近代天皇制が着実に浸透していったのである。