産婆の免許制

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 産婆について、開拓使は明治4年に産婆取締法をつくって、病院の免許のないものは営業させないことにした。当時貧しさから堕胎をする人々がいて、その堕胎を扱っていたのが産婆であった。ところがその技量の未熟さが原因で人命が失われることがあったのである(『布類』)。11年には布達を出し、教科を設けて札幌、函館、根室の3病院で営業者の新旧を問わず、この仕事をするものへ教授をすることとした。これに従い函館病院では12年5月、産婆教授仮親則を作って、従来の営業者と新参者に教授を始めた。前年に病院は火事で焼けていたので、最初は地蔵町の2小区扱所や台町の検黴(ばい)所で行っていたが、同年6月5日の「函館新聞」には以後、蓬莱町の黴毒検査所へ移転するという記事が載っている。講師は函館病院医員の鳥渇精一と田沢謙であった。なお5月22日付の同紙には、産婆の試験だと勘違いして出頭しない人もたくさんいると書かれている。産婆の程度はかなり低かったらしい。産婆の数は15年で21名で、その後徐々に増加していくが明治年間は2桁に留まった。そして32年に産婆規則(勅令第34号)、産婆試験規則(内務省令第47号)が出て、ようやく全国的な統一規制が行われるようになった。函館では実際に試験を受ける人がどのくらいであったかを当該年度の『北海道庁衛生年報』から拾ってみる。34年は「登録開業」者が41名で、受験者はなく、同35年は「登録開業」者が44名で、受験・合格者が3名、同36年は「登録開業」者44名「限地開業」者が2名に対し、受験者は5名でそのうち合格者は3名であった。これでみる限り、規則ができたとはいえ、最初の数年間は実態はほとんど変わりなく、総数40数名のうち試験により免許を得たものは1割にも満たなかったのである。