明治10年・12年の流行

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 函館では安政年間にもコレラの流行があったが、明治に入っても数度大きな流行があった。明治10年に清国に流行したコレラが侵入して、西南戦争を終えて各地に帰還する兵士と共に全国へ広がっていったのである。函館でも横浜から入港した船の乗員に2名の患者がいて、結局これがもとで市内に広がり多くの犠牲者を出すに至った。『斉藤与一郎伝』によれば患者81名、死者は69名であったという。この時内務省では主要開港場のある地方長官に、「虎列刺病予防心得」(内務省乙第79号達)を達し、検疫委員、検疫取扱事務所が設置され、七重浜に避病院が設置された。開拓使は食べ物の規制をしたり、集会を禁じたり、便所や溝の消毒など、防疫につとめ、函館病院の医師鳥潟精一や宍戸精庵は献身的な働きをしたが、それでも前に記した通り犠牲者は防げなかった。避病院はその後山背泊町に移転されたが、流行がおさまると閉鎖された。同じく検疫医員、検疫取扱事務も廃止された。当時は、こういった機関はあくまでも臨時的なものであったのである。続いて12年にも流行をみた。この年の函館のコレラ流行の様子は、「函館新聞」7月から10月あたりに連日のように掲載されている。世間を揺るがす一大事件であったことがわかるのである。函館で初めて患者が出たのは8月に入ってからで、10月半ばに終息するまで、100人を越える患者が発生し、その大部分が死亡した。市内の各学校も休校になっている。政府は12年に急きょ、「虎列刺病予防仮規則」の発布を行い、検疫医員の設置や避病院の設置などの規定を設けた。続いて「海港虎列刺病伝染予防規則」を制定し、海港検疫が施行されることになったが、この規則はすぐに改正され「検疫停船規則」として適用されるようになったのである。