函館支庁の考え

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 次に開拓使と函館支庁の主張の違いについてみてみよう。「解放令」の実施に当初消極的で曖眛だった開拓使に対し、函館支庁はむしろ積極的にストレートに「解放令」を実施しようとしていた。たとえば「解放令」が出た5年10月、函館支庁(松平太郎)から札幌上局へ出された打ち合わせを開いて欲しいという主旨の書簡には「今般年季奉公ノ義別紙ノ通被仰出候ニ付テハ、天下一般遊女渡世ト申家業ハ無之筋ト領承セシメシカ為ニ御布告相成候御趣意ト相考候、然ル上ハ、自今抱遊女芸者等ノ改革振北海道一般同様ニ不相成候テハ不体裁ニモ有之候」と、全国から遊女渡世という家業を無くするための御布告なのだから、北海道も全国同様に実施すべきことを強調している。これに対し開拓使は一般の規則ができるまでは「先ツ従前ノ通据置候心得」なので、御布告の達しも見合わせるようにと返答している(明治5年「函館往復」道文蔵)。
 また翌6年管内に「解放令」を布達した際、開拓使はできるだけ彼女たちを北海道に留めようとしているのに対し、函館支庁は一段落した6年2月28日、各戸長への達の中でこの種の営業を許可するのは「一時不得止ノ権限」より出たもので、本来彼女たちは年齢相応の者と結婚するかまたは女性相応の生活を立てるなど1日も早く「後来一身ノ落着相定人倫適当ノ道ヲ履」むのが「専要ノ事」である。それゆえ身寄りが遠くに居る者は早々に解放の趣意を身寄りへ送り、旧主などへ寄寓せずに女性専要の道を貫くように心掛けてやって欲しいと、できるだけ親元へまたは正業へ戻るようにと指導している(明治6年「御達書留」)。
 さらに前述の開拓使布達の第4条「是迄ノ貸借ハ相対和談ノ上…」は、6年4月に「解放令」本来の主旨に反するとしてと取り消された(明治6年「箱館町会所御触書」)が、この際も開拓使は「北海道ニオイテハ其情誼ヲ追ヒ、相対和談ヲ以隠ニ取引イタシ候分ハ黙許ニテ可然」としているのに対し、函館支庁の杉浦は「寧ロ断乎一般ノ庁議ヲ奉シ娼芸妓之如キハ犬馬視スルノ方、結局下民ヲシテ疑惑ヲ不生使威モ相立可然義ト被存候」と、疑惑を持たせないためにも北海道を特別扱いせずに、他府県同様に施行すべきことを主張している(明治6年「東京札幌福山諸県往復留」道文蔵)。
 結局、函館支庁は北海道の特異性云々ではなく、北海道も他府県同様に同一の規則を実施すべきことを主張し続けたのである。