賦金

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 三業はそれぞれ営業とみなされ各々に税金が課せられていた。次に三業の税金について少しみてみよう。箱館戦争が終結してまもない2年9月から函館では旧例に倣い遊女屋税(10円)・引手茶屋税(5円)・見番税(豊川町200円、山上町500円)の諸税の徴収が開始されていた(『開事』、明治5年「函館市街ノ内蓬莱町地所割渡願書」道文蔵)が、5年10月、函館支庁は蓬莱町遊郭の誕生を機に、取り締まりもかねて、東京出張所へこれら諸税の改正を伺い出た(「開公」5723)。改正内容は、(1)規則を犯して遊女屋同様の所業をしている引手茶屋に遊女屋業を許可し、課税額を従来の5円から25円へと増額する、(2)芸者、遊女は従来課税の対象外だったが芸者が遊女と紛らわしい所業をしているので自前遊女と改称して月額5円、遊女へは1円を課税し、(3)遊女屋税は廃止して、(4)その増額収入は黴(ばい)毒院の費用に充てる、というものだった。この頃中央でも新しい租税賦課法について建議中だったため「追テ一般ノ税法相定候節可及詮議、夫迄ノ処従前ノ通」ということで函館支庁の伺いは見送られ、翌6年2月の「解放後法則」に「但貸座敷渡世税金ノ義、函館追テ確定ノ上可申進」とあるように、とりあえず無課税の状態で貸座敷、芸妓、娼妓の営業は開始された。ただ芸娼妓の営業上に関係のある黴毒検査治療のための積立は、彼女ら自身で賄わなければならないため、月2分ずつ納めることが義務付けられた。
 営業取り締まり上いつまでも無税の状態にしておくこともできず、まもなく「地方限りの課税」の動きが始まった。まず7年の太政官布告により府県限りで徴収し上納する必要のない税金を「賦金」と呼ぶことになったが、翌8年11月函館支庁は「当管下貸座敷芸娼妓渡世ノ者従前賦金取立候義無之候処、目今漸ク繁盛相成候ニ付、当分函館市街ハ課賦致シ」と営業の見通しがついた函館の貸座敷や芸娼妓を対象に、賦金徴収を開始したい旨伺いを提出した(「開日」、明治8年「長官伺録原書」道文蔵)。使用目的は三業に関する諸費の支払いと、この頃話が出始めていた女紅場設立の準備資金に繰り入れるためであった。翌9年7月許可を得、翌8月には賦金の額を折り込んだ「貸座敷並芸娼妓営業規則」を布達し、等級と賦課区分を貸座敷は上等月額5円・中等月額3円・下等月額1円50銭、芸妓は上等月額2円・下等1円、娼妓は上等月額1円・下等月額50銭と定めた。こうして三業に関係する費用の一切は賦金で賄われることになったので、6年から徴収されていた黴毒検査のための積金は廃止された(『布類』)。
 開拓使はこの賦金を9年に「人民公益の用途に充てる」として興した開拓使限りの「地方税金」の中に組み込んだ。9年度から11年度までの函館支庁管内の地方税金総額にたいする三業税の割合は実には70~85パーセントにも達していた(『開事』)。さらに12年7月から芸妓税を地方税(国に準じた地方税)の枠に入れることにしたため、貸座敷税と娼妓税の2税を賦金と改め、女紅場やそのほかの三業に関する費用に充てた(『布類』)。