こうして被災復興後の新たなる活動を開始した山本忠礼の北溟社も、経営面では大きな問題を抱えていた。大火後の物価高騰の中で「公益」を旨とし印刷代の値上げもしない北溟社の運営は、株主一同より月々出される資金によってなされていた。しかし株主ら自らも被災し分担金を出すのが困難となり、ついに13年9月、函館支庁に相当の抵当物を出し、3000円無利息5か年賦の資金拝借を願い出た(明治14年「親展文移録」道文蔵)。北溟社の印刷技術を認め、株主も「当港屈指ノ人物ニテ最モ信ヲ置クニ足ルモノ」で「相当ノ抵当物モ差出候儀ニ付、夫是事情御汲置、願意採用」して欲しいという函館支庁に対し、東京出張所からは翌14年2月になって「本年ハ定額満期ノ事故…何分繰合ノ道無之…月々何程ツヽ歟ノ補助金ヲ与ヘ」るようにしてはという返事が来た(同前)。
こうして拝借金の結論も出ないうちの14年1月26日の函館新聞に突然「当社々長山本忠礼儀、今般営業ノ都合ニヨリ社人ヲ辞シ、更ニ当社従来ノ印刷人伊藤鋳之助譲受ケ、現今其旨内務省ヘ出願中ニ候得共、爾来当社ノ事業ハ勿論貸借上トモ一切伊藤ニ於テ負担候間、不相変御愛顧アランコトヲ祈ル」という社告が掲載された。再び社長の交代が行われたのである。被災後の機械の購入や新社屋の建築など復興に伴う費用がかさみ、経営困難の責任をとって山本忠礼が社長を退任、同時に創立以来の株主による結社組織も解散し、社の財産すべてを北溟社開設の功労者であり開設当時からの印刷人である伊藤鋳之助に譲渡し、鋳之助が社長となったのである(「函館県(雑記)」『北海道史編纂史料』北大蔵、明治13年度「函館商况」道文蔵)。
内務省の許可がおりた旨の広告は、3月2日の函館新聞に掲載された。この間の函館新聞の発行所の欄をみてみると、13年12月末までは社長山本忠礼・仮編集長野村庸直・印刷長伊藤鋳之助の名が並んでいるが、翌14年になると仮編集長野村庸直・印刷長伊藤鋳之助の名のみとなり、内務省の許可がおりた3月2日からは、社主伊藤鋳之助・編集長野村庸直・仮印刷人小平金治郎となる。つまり山本忠礼は13年いっぱいで職を降りていたのである。その後の忠礼は内澗町に「六花堂」という菓子店を経営、一方では開拓使官有物払い下げ請願運動の中心人物となるが、16年離函する。
以後鋳之助は株主を募集することなく1人で北溟社を経営、社員も鋳之助が人選していった。鋳之助の心情は「政党新聞ニ非サルヲ以テ、従来政党ニ加入スルコトナク常ニ地方官民ノ間ニ立チ公益ヲ謀ルニ汲々」(前掲「函館県(雑記)」)とあるように、鋳之助が社長に就任してからの函館新聞の体裁は「従来変更スルコトナク社説ナク、時トシテ投旨ノ論説ヲ掲クルノミ、之ヲ要スルニ地方ノ状況ヲ世上ニ報道シ、内地府県ノ景况ヲ此地方ニ報道スルヲ以テ目的トシ、政党等ニハ毫モ関係スルコトナシ」(同前)と函館県が報告している通り、政治色の無い実に穏やかな中立的地方新聞であった。実際、14年の開拓使官有物払い下げ事件の報道や、16年に結成された北海自由党に関する報道をみても、実に淡々とした調子で報道している(前掲『民権資料集』)。また函館新聞の記者をしていた出戸栄松の回想記(「憶起録」『函館毎日新聞』大正10年10月10日~25日掲載)にも「新聞も一種の事業、顧客から憎まれては勘定が立たなくなる。正義だ、党論だといって無鉄砲な論議を振り回し誤って見当違いの議論をして信用を失うようでは、主張も通らず勘定も立たぬ」という鋳之助の新聞への意見が載せられている。