まず巴港社が動き出した。同社は前述の関連でついに29年8月限りで社を解散、同時に北海も7月26日限りで廃刊することになった(7月26日付「北海」)。当時の社長は前年の改正で650円の出資をした新田太平だった(『合資会社巴港社契約書』)。新田は函館屈指の小間物商で27、8年には区会議員も努めていた(『北海道人名辞書』)。ほかに和田元右衛門・平出喜三郎・田村力三郎・石坂嘉蔵(以上出資額200円)、相馬哲平(出資額150円)、工藤弥兵衛・林宇三郎(以上出資額100円)など99名が出資していたが、この解散にあたり巴港社は新田派と大町の物産商石坂嘉蔵派との2派に分かれたが、結局石坂派の所有するところとなった(前掲「二十年前の思出」)。組織替えをした巴港社は、新機種を導入、記者を増員して翌8月10日に「北海新聞」第1号を発刊することを予告した(8月8日付「樽新」広告)。広告によると北海新聞の紙幅・料金は北海と同じで、隔日刊。紙面内容も社説・短評・雑録・小説・商況・広告など北海とほぼ似た内容になっている。この時期巴港社を離れたのが、主筆の平田久、村上政亮(のち「報知新聞」編集長)そして前出の工藤忠兵衛である。彼らは一時函館新聞の記者となるがまもなく平田と村上は函館を離れた(前掲「二十年前の思出」)。
翌30年5月北海新聞は再び紙面の改良を行ない6面の日刊紙となり、料金も1部2銭・月極め35銭とした(4月28日付「北毎」広告)。広告には「殊に商事担当者を増聘し商業地の新聞紙として遺憾なきを期せんが為め、″北海商報″の一欄を設け日々の紙上殆んど四段を商業記事物価等を以て填充し、機敏に且つ精確に商業社会の案内者たらんと欲す」とあり、20年代の政論新聞としての北海は姿を消した。その後31年中に社名も北海新聞社と変更した(明治35年刊『函館案内』)。
35年6月3日、北海新聞は廃刊となり(6月6日付「北海朝日新聞」)、6月10日の火事で社屋も焼失した(6月11日付前同紙)。その後新たな北海新聞社による「北海新聞」の発刊がなされているがその詳細は分からない。ただ現存する36年2月の北海新聞から第3種郵便物認可が35年6月22日になっていることや、同年12月の庁令第166号で公布式掲載の新聞から北海新聞が削除されたこと、あるいは翌36年の『北海道庁統計書』には同社の創業年が35年6月と掲載されていることなどから北海新聞の変更の一部を推測するのみである。