明治12年2月、北溟社内に自邇社を設け、『北海通誌』を発行したいとの願書が内務卿伊藤博文宛に提出された。この雑誌は琉球紙12枚摺の小冊子であり、持ち主は弁天町の商人蛯子七郎衛門、編集人は宮村直義、印刷人は伊藤鋳之助となっていて、毎月2号宛発行を予定していた。その内容は2月19日付の願書によれば、「論説ヲ初メ勧業上総テ要用事件ヨリ詩歌等記載セルモノニシテ」(北溟社「諸願届書」)と述べており、4月11日に発行された創刊号の目次を見ると、農学校某ヨリ稲田等ニ寄スルノ書、山林保護ノ説、七重試験場ノ景況などとあって、一種の勧業雑誌をめざしたもののようである。
その緒言によれば、近年、世間に流布している新報、雑誌の類は数十種を下らず、それによって庶民は内外の事情を知り世論の方向を察することが出来るようになった。ここ函館においても新開発刊以来、既に1年を経過し、北海道開拓進歩の景況はその概略を知ることが可能になったが、全道の状況を網羅するには至っていない。そこで、「今、本誌ヲ発行シ農耕牧畜漁猟採鉱製物ヲ初トシ、凡開拓事業ノ進歩ヲ徴スベキ事項ヲ網羅採輯シ、傍ラ詩歌ヲ掲載シ聊カ諸君ニ補益スル所アラントス」と、この雑誌の意図するところを述べている。
4月の発刊から6月までの3か月で1914部が売れ、その内訳は北海道内がほとんどであるが、東京でも88部、その他、福島、山形、青森、鹿児島各県で5、6部ずつ売れている。ところが、同年12月6日の大火で罹災し、「明治十二年三月四日発行免許ヲ蒙、是迄発行致来候処、今般本社類焼ニ罹り活版器械其他附属品共悉皆消失候ニ付、本月七日ヨリ十三年一月 (ママ)日迄ヲ限り休業致度」(同前)という休業届けが出されたのである。結局、11月30日発売の第16号の広告が函館新聞に載ったのを最後に大火後再刊された様子はなく、そのまま廃刊に至ったものと思われる。