明治初期の状況

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 明治4年8月、開拓使顧問ケプロンが開拓次官黒田清隆へ宛てた書翰の中に、「今般北海道へ開拓使庁及ヒ諸学校御建築相成候ニ付、左ノ緊要事件ニ御着意有之度奉存候。都テ教化ノ進歩ヲ補クルニハ、文房及ヒ博物院ノ欠ク可カラサルハ当然ナリ」(「開日」)という部分がある。これは、公立学校の設置に伴い、教育普及の効果をあげる手段として図書館と博物館の必要性を進言したものである。また、明治10年12月には文部大輔田中不二麿が「公立書籍館ノ設置ヲ要ス」という意見書の中で、
 
……公立学校ノ設置ト公立書籍館ノ設置トハ固ヨリ主伴ノ関係ヲ有シ互ニ相離ルヘキニ非ス。今ヤ公立学校ノ設置稍多キヲ加フルノ秋ニ際シ、独リ公立書籍館ノ設置綦(ママ)タ少ナキハ教育上ノ欠憾ト謂ハサルヲ得ス。吾儕ハ切ニ望ム。各地方教育者ノ公立書籍館ノ特ニ有益ナル理由ヲ認知シ、都鄙各其便宜ヲ計リ逐次設置ヲ図ルノ佳挙ニ注意アランコトヲ。……
(『文部省第四年報』)

 
 と述べて、ようやく公立学校が増加してきた時に際し公立書籍館が非常に少ないという現状を憂慮し、地方における公立書籍館の設置を奨励した。
 全国的に見ると、明治5年、東京において文部省の書籍館が開館し、京都でも民間の資本による集書会社が創立され、後に京都府も加わって半官半民型の図書館の機能を持つ集書院が設立されていた。
 一方、函館では明治6年、一般の読者を対象とした新聞縦覧所の開設に始まり、翌7年頃には、商人千葉重吉が戊辰戦争後に売りに出された松前藩の蔵書2000冊余りを購入して温古舎と称する施設をつくった。これらの書籍は当初、地蔵町の千葉の自宅に収容し保存されていたが、まもなく佐久間市五郎を事務取扱人に任じて一般にも開放した。この温古舎の所在地については、地蔵町(自宅)と亀田(別荘)の2説があり、いまだに確証はなく特定できない。現在、市立函館図書館には、「舎内備ふる書籍ハ諸君温古知新参考のため閲覧随意なるも舎外携出するを許さず」と温古舎の舎規を記した額が残されていて、舎内での書籍の閲覧は自由であったが貸出しを禁止していたことがわかる。また、閲覧者が少なく、やがて閉鎖されたと伝えられるが、その時期は不明であった。しかし、前記の額の末尾には、甲申8月と記されていることから、甲申に当たる明治17年の時点では、まだ一般公開の閲覧施設として機能していた事が明らかであるが、その頃の温古舎の様子を記した資料は他に全く見当たらない。