この日露両国の開戦は、函館港という軍事的にも経済的にも有数の要港と、その防御施設としての函館要塞を抱える函館区や区民に対して、多大の影響を及ぼさずにはいられなかった。
即ち、国交断絶直後の2月6日、函館、森、江差、寿都の各地に海岸監視哨が設置された。2月10日には函館湾と小樽湾に「防禦海面令」が施行され、函館港では、「弁天崎と矢不来崎を連接したる線と弁天崎を中心とし葛登支岬までの距離を半径として画きたる圏とを以て包囲する海面」が「函館湾防禦海面」(図13-2)に定められた(明治37年2月17日付「函館新聞」)。さらに2月14日、函館は「佐世保及長崎ノ要塞地帯並ニ対馬全島及其沿岸」と共に「臨戦地境」に定められ(参謀本部編『明治卅七八年日露戦史』第10巻)、同時に要塞地帯法によって戒厳令が施行され、翌38年10月17日に解除されるまでの1年6か月の間、戒厳状態が持続された(明治38年10月19日「樽新」)。
図13-2 函館港の防禦海面区域
明治37年2月17日付「函館新聞」より