徴兵令と陸軍諸機関の設置

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 しかし同21年5月、勅令第32号によって北海道は第二師管、第四旅管、青森大隊区に所属することとなり、22年1月より改めて函館、福山、江差に徴兵令が施行され、この地域の壮丁を徴集した。その後徴兵令の適用範囲は順次拡大され、明治29年1月に渡島、後志、胆振、石狩の4国に、同31年1月には全道に施行されることとなった。これにともない、同24年8月、函館の第三大隊は青森に帰隊した(同前書)。
 また明治27年の日清戦争開始とともに、翌28年3月、屯田兵を中心とした臨時第七師団が編成され、29年5月、正式に第七師団が設置された。
 こうした中で函館においては、明治30年前後に陸軍関係を中心とした諸機関の設置があい次いでみられた。
 まず明治29年3月、主として召集事務等を担当する函館連隊区司令部が函館区春日町に開庁し、同32年船見町に移転している。同年5月には、北海道に第七憲兵隊が設置されたのにともない、9月に函館分隊本部が西川町に置かれ、函館屯所の外、江差(30年廃止)と寿都にも屯所を置いた。そして同36年4月には函館憲兵分隊と改称されている。日露戦争の開始された同37年2月14日、要塞地帯法によって戒厳令が敷かれるとともに、翌38年10月16日の解除に至るまで同憲法分隊は監視業務を続行した。
 次いで明治30年11月、函館要塞砲兵大隊が亀田村の五稜郭内に設置され、翌31年11月、かつて青森連隊が分駐した千代ヶ岱に兵営を新築、移転した。最初は1個中隊の規模であったが、同32年に至って大隊編成の兵力となった。日露開戦時には、主として函館要塞の守備に就いていたが、37年10月徒歩砲兵中隊を編成して出征、翌年6月に凱旋した。なお、明治40年10月に函館重砲兵大隊と改称されている。