台地の遺跡は、沢合いや丘先部にある。函館圏流通センター用地内の遺跡調査は、昭和四十七年四月から十月まで、函館圏開発事業団が調査主体となって、延べ七、〇〇〇人余の作業員を動員して実施された。遺跡確認調査により、五地点から八遺跡が発見され、保護措置を講ずるA遺跡を除いたB1、B2、C、D、E1、E2、Fの七遺跡を発掘した。総発掘面積約二万五、〇〇〇平方メートルにものぼる単年度発掘は、北海道でこれまでに例を見ないもので、調査員は東北大学、宮城教育大学、弘前大学、慶応大学、山形大学、立正大学、埼玉大学など、東北と関東地方の考古学研究機関から集まり、調査報告書は市立函館博物館が編集し、昭和四十九年二月に刊行された。この報告書すなわち『西桔梗-函館圏流通センター建設用地内遺跡調査報告書』-函館圏開発事業団刊-には、調査の経緯と、各遺跡の調査内容などが詳細にまとめられているが、その概要を時代別に紹介して見ることとする。
西桔梗遺跡分布図
西桔梗で最も古い遺跡は、函館圏流通センター建設用地の北西部にある。桔梗台地の西側に、北から南に伸びる丘陵があって、標高は五・三ないし一三メートルと桔梗台地より低いが、その低湿地にある丘陵の南端部にN-1遺跡、それより北四〇〇メートルにN-2遺跡がある。また、桔梗台地の一部でサイベ沢の入口に近い北側の丘陵上にはN-3遺跡があり、この遺跡は標高一二メートルから一六メートルとやや高い。この時期は縄文時代の早期、すなわち今からおよそ八、〇〇〇年前で、まだサイベ沢に集落がなかったころのもので、発掘された土器には貝殼で文様を付けた、底の尖ったものが一般に使用されていた。当時海浜にあったこれらの遣跡では、漁労をしていたことがわかるが、N-2遺跡ではその後も生活が営まれていて、土器は函館市春日町遺跡のように、竹管工具による押引き文で装飾が付けられている。その後縄文時代前期の初めになると、この地域から移動して西桔梗A遺跡やE1遺跡で生活した跡が見られる。E1遺跡では縄文時代早期の後半から前期に至るまで生活したようであるが、西桔梗台地の丘先部にあるこの遺跡では、西の傾斜地にも住居跡があった。発掘されたのは、住居跡四基と土壙(こう)一一基で、海進による影響を受けて丘先部が侵食し、住居跡も削られていた。住居の形態は竪穴式住居で、床を粘土層まで掘り込み、柱を立てており、平面形は楕円形のものと、やや方形のものがある。土壙とは貯蔵庫あるいは墓のように人為的に掘り込んだ穴のことで、この遺跡では住居跡に似た大きな掘り込みと、平面形が葉巻形かT字形で、その長軸を深く掘り込んでいるものがあった。この葉巻形やT字形のものは、規則的に配列してあり、貯蔵庫とは考えられない面が多かったが、その後函館空港用地内の遺跡調査でも同種のものが発見され、シカなどの動物を捕えるための仕掛穴である可能性も出てきた。シカなどの動物が歩いた、いわゆるけもの道が、後に人間の歩く道路になる例はよくある。現在でも未開民族は集団で狩をする時、このけもの道にわなを仕掛けて捕えたり、たいまつをかざした道に動物を追い込んで、高いがけから突き落として捕えるなどという方法をとっているが、これらと同様な狩りのための仕掛穴と考えられないこともない。シカのように、すばやく逃げる動物は脚が細く、動作も敏捷(びんしょう)であるが、穴などに落ちると簡単に骨折や脱臼して動けなくなる。英語のトラップ(わな)の頭文字からこの種の穴をTピットと呼んでいるが、森林台地に柵(さく)などで仕掛け道を造り、わなを配して沢などで遊ぶ動物を追い込んで捕えていた狩猟民がいたことも考えられる。平面形がT字形のものは、獲物が横長の穴に落ち込んで暴れ廻るうちに、その中央部が崩れてT字形になったものであろう。E1遺跡の北側にあるB2遺跡では、Tピットから動物の骨が発見されているが、これは捕獲された時、骨折した脚の一部と思われる。