昭和二十四年の発掘

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 台地の一角を真っ白に見せるほど大規模な貝塚があったのは、亀田では煉瓦台(れんがだい)貝塚だけであった。国鉄五稜郭駅から五〇〇メートルほど東のあたりから台地になるが、現在この台地ぎわにある五稜郭保育園のあたりが、明治時代に煉瓦工場のあった所でこの一帯は煉瓦場と呼ばれ、ここから北に一〇〇メートル程の所に貝塚があった。この地点は現在は亀田本町に属し、標高一六メートルの台地である。この貝塚は、昭和二十四年に発掘された時、煉瓦工場の高台という意味から煉瓦台貝塚と呼ばれるようになった。当時は一面が畑地で、南北に広がる台地の西側が海進による浸食崖(しんしょくがい)で、がけ沿いに低い土手が南北に走っており、遺跡は東西六〇〇メートル、南北八〇〇メートルの範囲内にあり、その中に一号から六号の貝塚が分布していた。作物の生産が開始されるまでの春や、収穫の終った秋には、貝塚が白く浮き出されて分布がよくわかった。地表に露出している貝塚は、実際の貝塚面積より少ないが、この六か所の貝塚中、規模の大きな貝塚は三か所あり、一号貝塚が径一二メートル、二号貝塚が径一〇メートル、三号貝塚が径一五メートルあって一号と三号貝塚は接しており、西のがけから六〇〇メートルほど離れて南北方向に一、二、三号と並んでいた。また、がけに沿って五号と六号貝塚が一〇メートルほどの間隔で並んでいたが、径五メートルあまりの比較的小規模で、五号貝塚は土手の表土下部に一部が隠れていたが、がけと共に崩れた部分もあった。四号貝塚は一、二、三号貝塚と五、六号貝塚とのほぼ中間地点にあって、これも五、六号と同程度の規模のものであった。畑であったころ、貝塚の貝はその大半がハマグリとアサリで、それも現在の函館湾や大森浜では見られない程大きな貝殼が地表に露出し、ほかにシカや鳥類の骨も混じっていた。土器片や石器類は、貝殼堆積の厚い部分よりも、薄くて黒褐色土の混在する部分に見られた。この一帯に集落跡があり、煉瓦台遺跡の主要部分の規模は南北二七〇メートル、東西一〇〇メートルで、面積二万七、〇〇〇平方メートルに及ぶが、貝塚はその一部である。

煉瓦台貝塚貝塚と住居跡の分布(1)


煉瓦台貝塚貝塚と住居跡の分布(2)