亀田地方における稲作の足跡を文献によってたどって見ると次のようになっている。
『松前志』巻之六穀類部に「元禄五年(一六九二)東部亀田にて作左衛門と云もの新田を試みけれど、二、三年にして廃したり。又同七年東部辺幾利知にて墾田を試みしが、実りて新米を藩主え呈せしことあり。」また、『松前家記』に「元禄十年丁丑夏東部大野ノ新田を開く。」
以上の記事から知り得るように、現在の亀田、大野、上磯方面では元禄年間から水田の試作が行われ始めていた。しかし一時的に成功したものもあったが、品種改良や農業技術の研究改善がいまだ行われていないこの時代において、寒冷な北海道の地に稲作を成功させることは至難の業であり、失敗の連続であった。
一方海岸線に近い亀田地域に居住していた人々は、水田試作で苦労するよりも、漁業や畑作などの仕事をした方が生活が楽であり、また海産物その他を求めて亀田港に入港する交易船は、米、塩、古着などの食糧および日用雑貨を比較的容易に供給するところから、大部分の人は水田耕作に目を向けていなかった。
『北海随筆』には次のごとく記されている。
一 松前にて田作なき事は、土地にあはざるにてはなく、田作の時節鯡(にしん)猟と差合ゆへ、古来より耕し心見るものなき也。近年津軽者来って及部と云所へ、少斗り植付心見し所に、生立はよろしく、こえ過ぎたる斗りにて、実のらず。又亀田と云所にても心見けれども、同じ事なる故其後稲は出来ざる物にして、また心見るものもなく、霜の降事はやきゆへなるべきか。米不自由になきゆへ、心を尽す者なきゆへか、何も出来ざると云事あるべきや。