開港後の様子

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 ペリーがはじめて来航した安政元年四月には前記のような布達が出され、官民ともに不安な毎日を送り、商店が閉じられ、老人婦女子は近在へ避難し、船舶の出入りが禁止されるなど、市在はあたかも火の消えたごとき状態となり、ペリーをして、和親のかいなしと言わしめたほどであったが、一年後の安政二年には、よく外国人と打ち解け、以前のことなどすっかり忘れてしまったように安心して生活していた。
 彼ら外国人の一挙一動をよく観察していた平尾魯仙の『箱館夷人談』(函館市史史料編第一巻所収)には、次のように記されている。
 
  今歳安政二乙卯年夏六月松前箱館の港に休帆する異国船は、北アメリカ、イキリス、フランス、トイツ、の四ケ国とぞ。船の製造は大卒(ヲヲムネ)同様にして、たゞ籏印を以て其国々を分かてるとなり。当時八艘滞船して、此船々より三、四十人五、六十人づつ、都て二、三百個(ニン)計も上陸し、箱館市中及び亀田、有川などの村々を日々に往来して、和人と肩を摺り合ふと雖平素(ツネ)として回視(フリムク)するものもなし。
   彼等市中の往来は朝より日裡(ヒル)までは多からず。昼過に至れば甚多く、二、三百人づつとなり、一個二個(ヒトリフタリ)つれ立もあれども、大卒五、六個十二、三人にて本坊(ヲヲマチ)は元より裏衢(ウラトヲリ)小路までも経巡り、処々に息み、煙草を吸ひ、湯水を乞ひ、鄽店(ミセ)に欲しきものあれば何にても買とり、其売主を引て当下(イマ)異国かゝりの豪家山田屋、福嶋屋と云二軒の内に連れ往、価を定て銀銭を払ふに、二軒のうちにて通金を売主に遣し、銀銭は奉行所に納め、月々の計量(カンジャウ)にて上より通金下げらるゝとなり。又銀銭なきものは両家の内に頼んで品物を持行、後日代料払ふも有とぞ。
   七夕祭の夜、若ものどもに立交りてねぶたを𢯭(カツク)もあり、綱を曳も有て、ヤッサ〳〵と囃子(ハヤシ)たて、果は祖裼(ハダヌグ)ものあり、鉢巻するも在て、小勇して爬蹅(ハ子マワ)り、終しまひまで附随ひて興ぜしなり。