桔梗野台場

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 榎本軍関係や弘前藩の記した書物では「桔梗野台場」とか「桔梗野の胸壁」と記され、松前藩関係では「柳岱一二の台場」「桔梗柳岱」「柳岱砲台」などとも称されている。
 築塁について丸毛利恒は、前記『函館戦史』の中で「五月朔日桔梗辺ニ胸壁数ケ所ヲ築キ、大砲ヲ備ヘ兵ヲ出シテ之ヲ戍ラシム」と記しており、官軍側の追撃を受けた榎本軍が上磯、七重両方面からの攻撃に備え、急いで構築したものであろう。また、台場の状況については、『北海戦争日誌』(北大図書館蔵)に、「元来桔梗野ノ地形タル、高原平野ニシテ自然ニ高陽(場カ)ヲ為シ、賊ハ其高処ヲ占メ、堅牢ニ台場胸壁ヲ築キテ厳守シ、屈竟(ママ)ノ要害ナリ。而シテ一ハ旧津軽陣屋ノ勢援アリ、一ハ五稜郭ノ本牙ニ通シテ応援自在ヲ得」とある。台場の位置については七重浜方面より桔梗方面へ向かう旧道が海岸段丘を横切る付近、現在の流通センター付近のように推定される。