亀田諸村の馬数減少

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 亀田地域においては、前記のように明治初年より十五、六年までは馬の飼育に非常に熱心であったが、その後は次第に減少した。第一の原因として『駅路沿革史』によれば、「従来ヨリ駅馬ノ儲ナク、其逓伝スルコトアレバ区中ノ馬持ヨリ順番ヲ以テシ、其多数ノ逓伝ヲ要スルトキハ、本駅近郷乃チ亀田、鍛冶、神山、赤川ノ数村ヨリ交番ヲ立テ、人馬ヲ聚集シ、以テ逓伝ヲ為ス。之ヲ助郷ト唱ヒシガ、明治十二年十一月以後ハ本駅ニ属スル人馬ハ鑑札ヲ付与シ置クヲ以テ逓伝ニ支フルノ憂蓋鮮(スクナ)シ。」とあり、強制的な人馬の供出がなくなり、その他明治五年札幌本道の開通などにより神山村、鍛冶村などでは馬数の減少を余儀なくされた。第二の原因としては放牧場の問題である。開拓使は、明治八年四月、人民所有の牛馬が耕作を損害するので牛馬取締規則を設け、従前の鑑札を廃した。明治十年五月にも、牛馬取締規則を設け、「自今牧場区域を定め、猥りに山野に放つを禁ず。」と二度にわたり取締規則を発した。古くより亀田地域の村々では自由に山野に放牧し、比較的飼育は容易であったが、開発の進展とともに耕作地に害を与えることが多くなり、このような取締規則が出された。このことは、馬の飼育者にとっては大問題であり、次第に減少して行く原因となった。第三の原因として考えられるのは、鉄道の開通および沿岸海運の発達である。明治三十五年函館・小樽間の北海道鉄道路線のうち、函館・本郷間が開通し、従来馬背又は馬車輸送に頼っていた沿線の荷物輸送は大部鉄道輸送になり、また函館を中心として松前方面及び下海岸方面沿岸諸村への海運が進み、定期的に運行されるようになり、従来海産物を主としていたものが、その他の荷物まで運送するようになった。かくて馬の産地、馬市の村として、かつて有名であった亀田村は、明治三十九年ころには次のような状況になるのである。『渡島国状況報文 亀田村外六ケ村』によると、
 
 「昔時運搬業ノ多カリシ頃ハ一戸ニ付少キモ四、五頭、多キハ二十頭位ヲ有シ、山野ニ放牧シテ飼育亦容易ナリシカ、運搬業ノ衰ヘタルト、山野ニ濫牧スルコト能ハザリシトニヨリ漸次減少シテ今ヤ馬飼育戸数五百三十七ニ対シ、馬数千百二十一頭ニ過キズ、其内牝六百六十四頭、牡四百五十七頭ナリ。馬ノ飼育者ハ農民ニシテ終年舎飼シ、重モニ自家用肥料ヲ市街ヨリ運搬シ、販売作物ヲ市場ニ搬出シ、且ツ厩肥ヲ採ルヲ目的トセリ。又少数ノ者ハ前ニ記スルカ如ク他ノ運搬ニ従事シテ生計ヲ補ヘリ。」(別項)「今ハ冬期ノ製氷ヲ主トシ、其他煉瓦、切石、砂利等ノ運搬少許ニ過ギズ、随テ之ヲ営ムモノ少ナク、馬ノ飼育モマタ大ニ減少セリ。」
 
と述べている。

駄馬数