牧羊場開設と飼養状況

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 開拓使長官黒田は欧米視察の結果北海道において牧羊を行うことに関心を持っていたが、開拓使雇ケプロンもまた牧羊を建議し、ここに牧羊場が設置されることになった。
 そこでまず明治五年、東京に農業試験場を開き、米国から輸入した綿羊、牛、馬などに休養を与え、風土に慣らしてから北海道に移すという計画が立てられた。開拓使はそれらの受入れの場として七重試験場および札幌官園を充て、明治九年には専門の桔梗野牧羊場、札幌牧羊場を設置し、根室勧業場でも牧羊を行う計画であった。このような経過の中で、桔梗野牧羊場を開設するに当り、明治八年亀田郡桔梗村字桔梗野、七重試験場付属地七四六町七段一三歩を牧羊場用地として選定し、明治九年牧羊場開設に当って更に三九町四段八畝一六歩を加えた。牧羊場の地は、北東は障子山のふもと、北西は大中山村に接し、東は石川村に隣接、南は札幌本道(現在の国道五号線)に及ぶ地域であった。明治九年春、融雪を待ち、雌羊舎二棟、種羊舎一棟、その他事務所板蔵を建築し、東京開拓使二号官園から清国種六〇〇余頭を移し、又、七重試験場から「サウスダウン」雄七頭を移した。なお、清国種は東京にて「ロツト」類似症にかかり移送中に次第に蔓(まん)延して斃(へい)死するものが多かった。

桔梗野牧羊場事務所及び綿羊舎 市立函館図書館蔵

 明治十年、耕牛六頭、耕馬四頭で場内を開墾し、とうきびを播種して四五石二斗を収穫し、これを飼料とした。明治十一年大川村字一本栗の土地七一町五段八畝二一歩を放牧場とした。なお、清国種は気候風土に適しないとして五五頭を売却し、雌雄合わせて二六頭、「サウスダウン」一〇頭を七重に移し、その他の三三頭は殺処分を行い、一六六頭は病死している。明治十二年、米国より「スパニシメリノ」種二九頭、「コツウオルド」種六九頭を輸入し、七重牧場から清国種一一頭、「サウスダウン」種九八頭を移した。また、大川村放牧場の東北にあった民有林一六町二段六畝四歩余を購入して放牧場を拡張した。明治十五年廃使置県により七重勧業試験場を設置して同場に牧羊を収容することになり札幌牧羊場より「コツウオルド」種、「メリノー」種一五〇頭を移した。同年の生産は九二頭あり、総計四九二頭、斃死は一八一頭であった。明治十六年には原因不明の伝染病のため九四頭が斃死した。明治十七年に至り、以前からの伝染病のため、牧羊は風土に適しないとの結論を得、牧羊場を廃止して牧馬場と変更することについて裁可を得た。明治十八年「メリノー」、「サウスダウン」、「コツウオルド」一四〇余頭を貸与し、強健な「メリノー」雄一頭、雌四頭、「サウスダウン」雌一六頭、雄一頭、「コツウオルド」雌一三頭、雄一頭、合計三六頭を残した。明治十九年、北海道庁は桔梗野牧羊場の払い下げの方針を取り、牧羊場を廃止して残存羊は札幌牧羊場に移した。